人と人の可逆的な関係 [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(11)
腐れ縁の人間性
ごく単純な例しか知らない。
水を熱すれば蒸気になる。蒸気を冷やすと水になる。
このように状況が逆になると反応も逆行することを“可逆反応”という。
その反対の場合―といっても、適切な知識がないので困るのだが、たとえば、ダイヤモンドに非常な高温を加えると燃えてしまう。
酸素のないところでは真っ黒く、石墨になってしまう(だったかな?)。
要するに、二度と元どおりのものにはならない。
そういう変化を“不可逆変化”という。
ダイヤモンドも石墨も、どちらも純粋な炭素だから、あるいは、石墨をどうにかすれば人工ダイヤができるのかもしれないし、それだとすれば、ダイヤモンドと石墨も“可逆的な関係”にあるといえそうだ。
だが、あいにく、私にはその方面の知識は皆無にひとしい。
したがって、ここまでの記述を科学的に批判されると困ってしまう。
言っていることの大意だけをおくみとりいただきたい。
私はここに人間について、人間と人間との可逆的(あるいは不可逆的)な関係について語りたいと思う。
たとえば―いやに、たとえばの多い文章だが―たとえば、夫婦ゲンカなんてものは、それが決定的な破局へとつながらないかぎり可逆的変化の好例だろう。
フランス小咄にこういうのがある。
再婚をすすめられた若い未亡人が、
「私はあちらの方が弱いので、あまり強い人は困るのです」
「それならピッタリの人がいます。交通事故でその能力をまったく失った男性です」
こういわれて、未亡人は答えた。
「でも、それですと、ケンカをしたとき仲直りするのに困るのではありませんか」
組合って夫婦ゲンカは仲なおり
と古川柳にもあるくらいで、じつに他愛なく“反応が逆行”するのが、夫婦というものである。
親子の関係、兄弟の関係、よい友人関係―すべて可逆的な人間関係の例である。
幾度叱られようが、いさかいをしようが、その関係には終極はない。
なんのかんのといいながら、離れてはまたくっつく可逆反応をくり返しつづけるのが、親と子であり、兄と弟であり、夫と妻であり、友と友であるだろう。
義絶、絶交、離婚・・・などは、人間関係における不可逆的な反応の例であるが、よい親子、よい友人、よい夫婦の間にあっては、そういうことはめったに起こらない。
たとえ一時的に背を向け合うことがあっても、いつかは必ず元の姿に回復するだろう。
なんだか、クサい人生論風になってきたが、自分でもハナをつまみながらもう少しいわせてもらうと、人間と人間との深く、あたたかい、豊かな関係・・・そこにはそれを支える必須の条件としての可逆性がみられるようだ。
もし、人間の幸福というものを測定するいくつかの条件を挙げるとすれば、そのひとつは、その人がどれだけ多くの可逆的な人間関係をもっているか、ということではないだろうか。
腐れ縁というのは案外味のある人間関係ではないのかな。
いつだったか、テレビを見ていたら、元は検事だったという作家がこんなことをいっていた。
「離婚した夫婦は、いろいろその理由を述べるけれども、結局、離婚の最大の原因は、性的不一致です。セックスがうまくいってる夫婦はけっして離婚なんかしませんよ」
とくに耳新しい説ではないが、しかし、どうなんだろう。
性的不一致のために離婚した夫婦のすべてにおいて、結婚の当初からその性的不一致はみられたのだろうか?
いや、はじめは“うまくいっていた”のに、のちにセックスとは直接には関係のない何らかの原因が生じて、それが性生活へも影響を及ぼしたケースが多いのではないだろうか。
たがいに感情の冷えた夫婦の間では性の感覚も味気なくなるのではないだろうか。
同じ酒の味が、ある夜、なぜかひどくまずく感じられることがあるように―。
もっとも、酒のばあい、それっきり飲めなくなるということは、まず、ない。
酒と男の関係こそ、可逆的な関係の最たるものではあるまいか。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(11)
腐れ縁の人間性
ごく単純な例しか知らない。
水を熱すれば蒸気になる。蒸気を冷やすと水になる。
このように状況が逆になると反応も逆行することを“可逆反応”という。
その反対の場合―といっても、適切な知識がないので困るのだが、たとえば、ダイヤモンドに非常な高温を加えると燃えてしまう。
酸素のないところでは真っ黒く、石墨になってしまう(だったかな?)。
要するに、二度と元どおりのものにはならない。
そういう変化を“不可逆変化”という。
ダイヤモンドも石墨も、どちらも純粋な炭素だから、あるいは、石墨をどうにかすれば人工ダイヤができるのかもしれないし、それだとすれば、ダイヤモンドと石墨も“可逆的な関係”にあるといえそうだ。
だが、あいにく、私にはその方面の知識は皆無にひとしい。
したがって、ここまでの記述を科学的に批判されると困ってしまう。
言っていることの大意だけをおくみとりいただきたい。
私はここに人間について、人間と人間との可逆的(あるいは不可逆的)な関係について語りたいと思う。
たとえば―いやに、たとえばの多い文章だが―たとえば、夫婦ゲンカなんてものは、それが決定的な破局へとつながらないかぎり可逆的変化の好例だろう。
フランス小咄にこういうのがある。
再婚をすすめられた若い未亡人が、
「私はあちらの方が弱いので、あまり強い人は困るのです」
「それならピッタリの人がいます。交通事故でその能力をまったく失った男性です」
こういわれて、未亡人は答えた。
「でも、それですと、ケンカをしたとき仲直りするのに困るのではありませんか」
組合って夫婦ゲンカは仲なおり
と古川柳にもあるくらいで、じつに他愛なく“反応が逆行”するのが、夫婦というものである。
親子の関係、兄弟の関係、よい友人関係―すべて可逆的な人間関係の例である。
幾度叱られようが、いさかいをしようが、その関係には終極はない。
なんのかんのといいながら、離れてはまたくっつく可逆反応をくり返しつづけるのが、親と子であり、兄と弟であり、夫と妻であり、友と友であるだろう。
義絶、絶交、離婚・・・などは、人間関係における不可逆的な反応の例であるが、よい親子、よい友人、よい夫婦の間にあっては、そういうことはめったに起こらない。
たとえ一時的に背を向け合うことがあっても、いつかは必ず元の姿に回復するだろう。
なんだか、クサい人生論風になってきたが、自分でもハナをつまみながらもう少しいわせてもらうと、人間と人間との深く、あたたかい、豊かな関係・・・そこにはそれを支える必須の条件としての可逆性がみられるようだ。
もし、人間の幸福というものを測定するいくつかの条件を挙げるとすれば、そのひとつは、その人がどれだけ多くの可逆的な人間関係をもっているか、ということではないだろうか。
腐れ縁というのは案外味のある人間関係ではないのかな。
いつだったか、テレビを見ていたら、元は検事だったという作家がこんなことをいっていた。
「離婚した夫婦は、いろいろその理由を述べるけれども、結局、離婚の最大の原因は、性的不一致です。セックスがうまくいってる夫婦はけっして離婚なんかしませんよ」
とくに耳新しい説ではないが、しかし、どうなんだろう。
性的不一致のために離婚した夫婦のすべてにおいて、結婚の当初からその性的不一致はみられたのだろうか?
いや、はじめは“うまくいっていた”のに、のちにセックスとは直接には関係のない何らかの原因が生じて、それが性生活へも影響を及ぼしたケースが多いのではないだろうか。
たがいに感情の冷えた夫婦の間では性の感覚も味気なくなるのではないだろうか。
同じ酒の味が、ある夜、なぜかひどくまずく感じられることがあるように―。
もっとも、酒のばあい、それっきり飲めなくなるということは、まず、ない。
酒と男の関係こそ、可逆的な関係の最たるものではあるまいか。
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