還暦待望論 [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿のリサイクルである。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます
ヘルシーエッセイ(13)
還暦待望論
ある村に90歳をいくつかこえて元気に働いている老人がいるというので、老年医学の研究者が調査に行った。
老人に会っていろいろ話を聞くと、彼は酒も飲まず、タバコものまず、肉などもあまり食べない、と。
さもありなん!
深くうなずいたのだが、老人にはさらに3歳年長の兄がいるのだ、という。
「ホウ! そりゃ、お兄さんにもぜひお会いしたいですね」
すると、老人はこたえた。
「兄貴は大酒飲みでね、いまも家で酔っぱらってるから、ここへは来られねえだよ」
─というようなコントを、だいぶ以前に何かで読んだことがある。
これがたんなる笑い話でないことを示す研究を、最近、アメリカの研究者が発表した。
ハーバード大学医学部のローレンス・ブランチ博士らのグループは、1977年にマサチューセッツ州に住む66歳以上の高齢者1235人を対象に、タバコ、酒などの嗜好品、食生活、睡眠などの生活習慣を調べた。
そして、それから4年たった81年に追跡調査したところ、全対象者中317人が死亡していた。
死者、生存者ふくめて、生活習慣と健在・死亡との相関関係を調べたところ、両者とも関連は認められなかった。
酒のみにとくに死亡者が多かったとか、日ごろよく運動する人だけが目立って元気だとか、そういうことはまったくなかった。
唯一の相関関係は、タバコを吸わない女性が長生きしていることだった。
つまり、人間66歳をこえると、あとは何を食おうが、食うまいが、ジョギングなんかしようが、しまいが、もう長生きとはほとんど関係ない。
ブランチ博士は、不健康な暮らしによる影響は、年をとってからではなく青年あるいは中年のときにすでに現れてくるようだ、といっている。
すなわち、酒だのタバコだの、あるいは脂肪だの糖分だの、また睡眠だの運動だの、そういったことに気をつけなければいけないのは、だいたい50歳くらい、もう少し延長しても60歳くらいまでである。
60の坂をこえたらもう酒だって、タバコだってのみ放題、肉でも菓子でも好きなだけ食べてもよろしい。
それでも長生きする人はするし、早く死ぬ人は死ぬ。
―摂生必ずしも長寿とは直結しない、と、ブランチ博士はいっているのである。
酒はほどほどに、タバコはやめる。
腹八分目を守り、早寝早起き、適度の運動、というような不自由な日常が健康的な意味をもつのは、60歳まで。
60になったらもうそんな辛抱生活から解放されて、なんでも自由、お気に召すまま、AS YOU LIKE IT なんである。
ブランチ博士の言葉をパラフレーズすれば、こうなる(のではないか?)。
アア、オレモ早ク60ニナリタイ!
考えてみると、60歳で再び生まれたときの干支にかえり、これを還暦という風習には、たいへん合理的な意味がある。
たいていの人が60歳にもなれば、その子どもたちはまず一人前に成長し、その両親はすでにこの世の人ではないだろう。
子の就職と、親の葬式のどちらもすませて、いわば人間の最小単位の事業をしとげた、その一つの区切りが60歳である。
だから、人間、60までは生きて、働いて、子を育て上げ、親を見送る、義務がある。
アア、オレモナントカ60マデハガンバラネバナラヌ!
そして、60になったら赤い袖無し羽織なんか着て、余禄の人生を気ままに生きることにしよう。
青ヶ島か口永良部島で魚を釣って暮らすのもいいし、ヤキトリ評論家になって、毎晩、屋台から屋台へ渡り歩くフィールド調査に精を出すのもいいだろう。
酔っぱらって行き倒れて、そのまま昇天するなんて、最高だと思う。
しかし、それもこれも60過ぎてのおタノシミである。
60までは、耐エガタキヲ耐エ、忍ビガタキヲ忍ビ、ヤケを起こしてハヤまったことなどせずに、ひたすら生きつづけなければならない。
諸君、おたがいに体をだいじにしよう。
情けない追記。
この軽薄な駄文を書いた1981年、わたしは48歳だった。
「60」はずっと先の、はたして無事に生きているかどうかもわからない“未来”だった。
だが一生過ぎやすし。
うかうかと日を送り生きてきて、なんと83にもなってしまった。
で、その83歳の現実はどうか。
がんとツンボと極貧の三重苦にあえぐ最低最悪の日々である。
かくすればかくなるものとはつゆ思わず かくなり果てぬ武蔵野の露
自業自得とはいえ、あまりのことにわれながら笑うしかない。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿のリサイクルである。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます
ヘルシーエッセイ(13)
還暦待望論
ある村に90歳をいくつかこえて元気に働いている老人がいるというので、老年医学の研究者が調査に行った。
老人に会っていろいろ話を聞くと、彼は酒も飲まず、タバコものまず、肉などもあまり食べない、と。
さもありなん!
深くうなずいたのだが、老人にはさらに3歳年長の兄がいるのだ、という。
「ホウ! そりゃ、お兄さんにもぜひお会いしたいですね」
すると、老人はこたえた。
「兄貴は大酒飲みでね、いまも家で酔っぱらってるから、ここへは来られねえだよ」
─というようなコントを、だいぶ以前に何かで読んだことがある。
これがたんなる笑い話でないことを示す研究を、最近、アメリカの研究者が発表した。
ハーバード大学医学部のローレンス・ブランチ博士らのグループは、1977年にマサチューセッツ州に住む66歳以上の高齢者1235人を対象に、タバコ、酒などの嗜好品、食生活、睡眠などの生活習慣を調べた。
そして、それから4年たった81年に追跡調査したところ、全対象者中317人が死亡していた。
死者、生存者ふくめて、生活習慣と健在・死亡との相関関係を調べたところ、両者とも関連は認められなかった。
酒のみにとくに死亡者が多かったとか、日ごろよく運動する人だけが目立って元気だとか、そういうことはまったくなかった。
唯一の相関関係は、タバコを吸わない女性が長生きしていることだった。
つまり、人間66歳をこえると、あとは何を食おうが、食うまいが、ジョギングなんかしようが、しまいが、もう長生きとはほとんど関係ない。
ブランチ博士は、不健康な暮らしによる影響は、年をとってからではなく青年あるいは中年のときにすでに現れてくるようだ、といっている。
すなわち、酒だのタバコだの、あるいは脂肪だの糖分だの、また睡眠だの運動だの、そういったことに気をつけなければいけないのは、だいたい50歳くらい、もう少し延長しても60歳くらいまでである。
60の坂をこえたらもう酒だって、タバコだってのみ放題、肉でも菓子でも好きなだけ食べてもよろしい。
それでも長生きする人はするし、早く死ぬ人は死ぬ。
―摂生必ずしも長寿とは直結しない、と、ブランチ博士はいっているのである。
酒はほどほどに、タバコはやめる。
腹八分目を守り、早寝早起き、適度の運動、というような不自由な日常が健康的な意味をもつのは、60歳まで。
60になったらもうそんな辛抱生活から解放されて、なんでも自由、お気に召すまま、AS YOU LIKE IT なんである。
ブランチ博士の言葉をパラフレーズすれば、こうなる(のではないか?)。
アア、オレモ早ク60ニナリタイ!
考えてみると、60歳で再び生まれたときの干支にかえり、これを還暦という風習には、たいへん合理的な意味がある。
たいていの人が60歳にもなれば、その子どもたちはまず一人前に成長し、その両親はすでにこの世の人ではないだろう。
子の就職と、親の葬式のどちらもすませて、いわば人間の最小単位の事業をしとげた、その一つの区切りが60歳である。
だから、人間、60までは生きて、働いて、子を育て上げ、親を見送る、義務がある。
アア、オレモナントカ60マデハガンバラネバナラヌ!
そして、60になったら赤い袖無し羽織なんか着て、余禄の人生を気ままに生きることにしよう。
青ヶ島か口永良部島で魚を釣って暮らすのもいいし、ヤキトリ評論家になって、毎晩、屋台から屋台へ渡り歩くフィールド調査に精を出すのもいいだろう。
酔っぱらって行き倒れて、そのまま昇天するなんて、最高だと思う。
しかし、それもこれも60過ぎてのおタノシミである。
60までは、耐エガタキヲ耐エ、忍ビガタキヲ忍ビ、ヤケを起こしてハヤまったことなどせずに、ひたすら生きつづけなければならない。
諸君、おたがいに体をだいじにしよう。
情けない追記。
この軽薄な駄文を書いた1981年、わたしは48歳だった。
「60」はずっと先の、はたして無事に生きているかどうかもわからない“未来”だった。
だが一生過ぎやすし。
うかうかと日を送り生きてきて、なんと83にもなってしまった。
で、その83歳の現実はどうか。
がんとツンボと極貧の三重苦にあえぐ最低最悪の日々である。
かくすればかくなるものとはつゆ思わず かくなり果てぬ武蔵野の露
自業自得とはいえ、あまりのことにわれながら笑うしかない。
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