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漱石と近代医学史 [健康短信]

夏目漱石を通して知る日本近代医学史

胃弱・癇癪・夏目漱石 持病で読み解く文士の生涯

 昨年(2018年)は1868年の明治維新から150年ということもあり、NHK大河ドラマで西郷隆盛の生涯が描かれた他、幕末の志士ゆかりの地ではさまざまなイベントが催された。

 しかし明治期に大きな変革を遂げたのは、政治だけではない。

 医学の分野でも、ドイツ医学の採用と医療制度の整備により、西洋医学に基づく近代化が急速に推し進められた。

 このほど刊行された山崎光夫著『胃弱・癇癪・夏目漱石 持病で読み解く文士の生涯』は、病気がちだった文豪・夏目漱石と同時代の医師との交流を追跡した好著だが、漱石が残した数多くのテキストを通じ、日本の医学が近代化に向けて葛藤を重ねた様相を浮かび上がらせている。

 漱石が見た近代日本眼科学の曙

 一般的には胃潰瘍のイメージが強い漱石だが、他にも眼病や糖尿病など数多くの疾患を抱えていた。

 眼病の治療で漱石が通院していたのが、神田駿河台の済安堂医院。

 東京医学校(東京大学医学部の前身)で日本初の眼科講座を担当した井上達也が開業した。

 同院は、現在も井上眼科病院として診療を行っている。

 1874(明治7)年、政府は、西洋医学を学んだ長与専斎を中心に取りまとめた「医制」を公布して医療・衛生行政の規定を整備。

 全国規模で病院の建設も進み、東京医学校では「お雇い外国人」を招いての医学教育が行われた。

 井上は、お雇い外国人が主流の東京医学校・東京大学医学部で、日本人として初めて眼科学助教授に就任する。

 しかし、1882(明治15)年には大学を辞め、開業医に転じた。

 そんな井上の元をトラコーマに罹患した漱石が訪れ、診療を受けたのは明治20年代のこと。

 本書では、済安堂医院に通院する漱石の心境について、

 《昨日医者へいつた所が、いつか君に話した可愛らしい女の子をみたね》と記された正岡子規宛の書簡を紹介している。

 その後、漱石も井上と同じように東京帝国大学教授の職を辞して朝日新聞に入社している。

 在野に転じた井上の気骨ある「変人ぶり」に、気脈を通じるところがあったのかもしれない。

 井上は1888(明治21)年、井上眼科研究会を結成。

 これは、現在の日本眼科学会の前身に位置付けられる組織だ。

 コンニャクで胃痛を治療

 漱石は、1910(明治43)年に朝日新聞で連載された『門』の執筆前後から、胃痛に悩まされるようになる。

 その際に通院していたのが、専斎の長男で内科医の長与称吉が内幸町に開設した日本初の胃腸病専門病院「胃腸病院」であった。

 称吉は、1898(明治31)年に日本消化器病学会の前身に当たる胃腸病研究会を創立し、初代会長を務めている。

 本書によると、そこで漱石が称吉に施された治療の1つに、「蒟蒻療法」があったという。

 これは、湯で温めた熱いコンニャクを腹部に当て、胃を温めるというもの。

 しかし効果はなく、腹部に火ぶくれをつくっただけだった。

 漱石は《今日より蒟蒻で腹をやく。痛い事夥し》と日記に書き残している。

 手探りの部分が多く残る明治期の医学を象徴するエピソードだ。

 漱石だけでなく、近代日本の文豪はさまざまな持病に悩まされ、その痛みや苦しみを日記、作品に書き残した。

 それらをひもとくと、西洋医学を日本に導入しようとした明治期の医師たちの悪戦苦闘が浮かび上がる。

 本書はあくまで文学論の体裁を取っているが、既存の医学史にはない視点を提供した一冊となっている。

 近代日本の主な作家とその死因
 
 坪内逍遥  気管支カタル  享年 75
 森鴎外   萎縮腎・肺結核    60
 二葉亭四迷 肺結核        45
 正岡子規  肺結核        34
 夏目漱石  胃出血        49
 尾崎紅葉  胃がん        35
 樋口一葉  結核         24
 北原白秋  腎臓病・糖尿病    57
 谷崎潤一郎 腎不全        79
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