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老にして聾、聾なれど朗。 [老聾ぐちぐち]

 老にして聾、聾なれど朗。

 夕暮れにはまだいくらか間がある。淡い青色が空いっぱいにひろがっている。

 週日のこの時間、荒川左岸の堤防上につくられた、自転車と歩行者専用の「健康の道」にはほとんど人影がない。

 河口のほうへぶらぶら歩いていくと、外灯の台座にジャンパー姿の小柄な男性が腰かけていた。
 
六十がらみの人のよさそうな顔に笑みを浮かべて立ち上がり、口を開いた。

 こちらはあわてて頭を下げる。

「あ、ごめんなさい。わたし、耳がダメなんです。よかったら書いてもらえますか」

 メモ帳とボールペンを差し出すと、ちょっと困惑した感じながら受けとり、ゆっくりと文字を記してよこした。

『向こうに見えるのは 富士山ですか』

 横罫のページに縦に書いた2行がすこし曲がって傾いている。

「はい、そうです」

 西の方角のはるかに遠い空と海とが接するところに、逆扇形の山容がくっきり見える。

「秋のいまごろからと冬の晴れた日には、とくによく見えるようになるんです。空気が澄むからでしょうね」

 なにかつぶやいてうなずく相手へ、会釈を返し、背を向けて、ぶらぶら歩きをつづけながら、思った。
 
ここから富士山が見えるのが意外だったのかな? 
 
どこから来たんだろう。最近、近くに越してきたんだろうか。

 ずいぶん久しぶりに妻以外の人と言葉を交わすことができて、うれしかった。

   

 両耳の聴力を失ってもう10年になる。

 正確にいえば、24年前にまず右耳がダメになった。

 肝臓を3分の1切除する手術の、全身麻酔からさめたとたん、脳が破裂しそうな激痛に襲われた。

 そのとき同時に聴覚伝導路のどこかがこわれたのだろうか。

 退院して数日たったころ、右耳の聴こえがおかしいことに気づいた。

 手術を受けた病院の耳鼻科で診てもらい、「重度感音難聴」といわれた。60歳だった。
 
それからの14年間は左耳だけで暮らしてきた。
 
日常、多少の不便は感じても、別段悩んだりするようなことはなかった。

「昼寝のときの耳栓が1個ですむからトクだ」などバカな軽口を叩いたりして……。

 ところが10年前、その左耳もこわれてしまった。

 5月半ばの朝、目が覚めたら左耳がボァーンと詰まっていた。
 
飛行機に乗ったときに生じる耳閉感に似ている。

 家の近くの耳鼻咽喉科医院に駆け込み、耳管に空気を送る通気治療をやってもらったが効果なし。

「大きい病院へ─」と医師。

 翌日、妻に付き添われて、都心の専門病院を受診したときは、もうほとんど何も聴こえなくなっていた。

 医師が質問を机上の紙に記し、こちらは口で答える問診、聴力検査、頭部X線検査その他の結果、「急性感音難聴」と診断された。

「突発性難聴とはどう違うのですか」と聞いたら「ほぼ同じ」、

「原因はなんでしょう」には、首をひねり「? ? ?」、疑問符が三つ、横並びに記された。
 
早速その日から始まった高気圧酸素療法、副腎皮質ステロイド、血液循環改善薬、血管拡張薬、代謝賦活薬など併用の、2ヵ月余にわたる総攻撃的な治療もむなしく、ほぼ全聾にひとしい両耳の失聴が完成した。
   
   

 病院で紹介された補聴器専門店を訪ねて、「認定補聴器技能者」が選んでくれた三つばかりの機種を試し聴きして、機能(重度難聴用)と懐具合の折り合った「ポケット型補聴器」(5万3千円)を購入した。

 そして補聴器生活が始まって、まずなによりもうれしかったのは、自分の声が聴こえるようになったことだ。

 人が口から言葉を発するときは、自分の耳でもその言葉を聴いている。

 自分の口から出た言葉が自分には聴こえないというのは、なんだか妙な感じでへんにくたびれる。一言二言ならともかく、長話などとてもできない。

 補聴器をつけたら、口から出た言葉がそのまま耳から入ってきて、気もちが落ち着き、普通にらくに話せるようになった。
 
人の声も、イヤホンとつながったコードを伸ばし、補聴器の本体を相手の口元へ近づけるとちゃんと聴こえる。が、声が聴こえることと、言葉を正しく聞き分けられることは、全然同じではない。
  大きめの声で、ゆっくり話してもらうとすっとわかるときもあるが、そうでないときのほうがずっと多い。

最近の一例―。

 プロ野球日本シリーズ実況放送のテレビに映ったダッグアウトを見て、妻がいった。

「栗山は1週間、風呂に入ってない」

「へぇ、げんかつぎってやつか。シャワーは使ってるのかな」

「えっ!?」

「1週間、風呂に入ってないんだろう?」

 妻はげらげら笑いながら、正解を記した手持ちボードを見せる。

「栗山は自信たっぷりの顔」
 
勝利を確信した監督の表情についての感想が、なぜ「1週間、風呂に入ってない」になるのか。これはもう笑うしかない。

 10年も経って、毎日、同じ家で暮らしている相手の言葉でさえこうなのである。

 まして、よその人の言うことなど――である。だから私の補聴器は人の話を聞くのにはほとんど無力、もっぱら自分の声を聴くためのものといったほうがよい。

 人の話が聞けないと、人と会ってもあまり楽しくない。ときには苦痛でさえある。すっかり出不精になった。

 年に一度、「長寿健診」を受けるさいに提出する「生活機能に関する基本チェックリスト」の、

「バスや電車で1人で外出していますか」

「友人の家を訪ねていますか」

「家族や友達の相談にのっていますか」

「週に1回以上外出していますか」

「自分で電話番号を調べて電話をかけていますか」といった項目の「いいえ」にレ印を入れるのにも(最初は抵抗感があったが)慣れた。

 ことしはついに、「(ここ2週間)自分が役に立つ人間だとは思えない」の「はい」をチェックした。

「ここ2週間どころじゃないよ、年中だよ」とつぶやきながら――。

「目が見えないことは、人と物を切り離す。耳が聴こえないことは、人と人を切り離す」とカントがいっているそうだが、自分の実情もそれにとても近いと思う。

 人と話をしないことが長く続くと、やがて声がかすれてついには出なくなる。

 声帯も筋肉だから使わないと萎縮するのだという。

 その「声帯萎縮」を防ぐべく、私が日常つとめて励行していることは、歌を歌う、文を朗読する、の二つである。

  歌えば気も晴れる、読めば頭もしゃきっとする。

 これ、うつや認知症の予防にも役立っているのではないだろうか。同居人(と、台所のぬかみそ)にはだいぶ迷惑をかけているようだが…。

   * 

 お年玉はがきの売り出しが始まった、晴れた日の昼過ぎだった。

 団地のなかにある郵便局へ行こうと、コンクリート長屋の4階から1階へ降りて外へ出たら、路上にぽつんと一つ、幼い女の子の姿があった。

 いたいけな小さな歩みがなんともかわいく、後ろからずっと見ていたくて、追い越しそうになった足をゆるめようとしたとき、その幼稚な歩行がぴたっと止まった。

 と、次の瞬間、わっと泣きだした。

 おどろいて駆け寄り、ひざを折って声をかけた。

「どうしたの?」

「まいごになっちゃった」

 口元へ向けた補聴器を通して高く澄んだ声が耳を打った。おおっ、いいぞ!

「だいじょうぶだよ、おじいちゃんと一緒にさがそうね。お名前は?」

「みやした ひろみ」

「いくつ?」

「四さい」小っちゃい手の親指を内側に折って見せた。

 ああ、ありがたい! よく聞こえる。

 さあ、正念場だ。祈るような思いを込めて言葉をつなぐ。

「ひろみちゃんね、おじいさん、耳がきこえないんだ。大きな声でお話ししてくれる。おうちはどこ?」

「わかんない」

「そうか、おうちはずうっと遠くなんだね」

「うん」
「きょうはどこに来たの?」

「ようちえん、ママときたの」

「あ、わかった! もうだいじょうぶだよ。連れてってあげる。おいで」

 立って、手を差し伸べると、ぎゅっとつかまってきた。

 団地の一角にある幼稚園は、荒川の堤防の内側に沿う道路に面している。
 
幼児の足に合わせてゆっくりいま来た道を引き返す。

かわいい手から伝わってくる小さな握力をしみじみうれしく感じながら……。

 二つの住居棟(当家もその一棟の一室)のわきを抜けて、小学校の校庭と団地の間の細長い路を行くと、幼稚園の裏門に突き当たる。

 何かの催しでもあったのか、園庭で子どもたちが遊び、若い母親たちが少人数の輪をいくつかつくって、立ち話をしている。

 その場景が間近に見えたとたん、右手のなかからすっと小さな手が離れた。

 ママのもとへ駆け寄る後ろ姿を見届けて、ほっとし、きびすを返した。

 歩く足が軽い。

 郵便局は明日にしよう。

 思いがけぬ贈り物をもらった幸福感をこのまま胸に抱いて家に持ち帰ろう。

 ローエンドロー ローエンドロー

 聾後のマイテーマソングをひとりでに口ずさんでいた。

 老&聾 聾&朗……。
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