政治家の頭髪 [雑感小文]
政治家の頭髪
①チビ②デブ③ハゲは男の外見の三ペケとされる。
自慢じゃないが、当方は三つとも完備している。
も一つおまけに④ガニマタだ。
むろん初めからそうだったわけではない。
20代では①と④だけだったが、30代後半までに②が完成し、40代で老眼が始まったころ③が加わった。
秋、落葉の季節(木の葉髪という季語もある)にちなみ、③の話を─。
一口にハゲといっても20種類以上もあるというが、最も一般的なのは円形脱毛症と男性型脱毛症だ。
前者は病気で、後者は体質だ。
普通、ハゲと呼ばれるのは後者のほうで、日本人男性の約30%にみられる。
少数派だ─と書いて、気づいたのだが、政治家にはわれらの仲間がきわめて少ない。
歴代総理の頭部を思い浮かべてみても、吉田茂と中曽根康弘ぐらいだ。
これ、なにか理由があるのだろうか。このごろの政治がダメなのは、まさかそのせいではあるまいな。
①チビ②デブ③ハゲは男の外見の三ペケとされる。
自慢じゃないが、当方は三つとも完備している。
も一つおまけに④ガニマタだ。
むろん初めからそうだったわけではない。
20代では①と④だけだったが、30代後半までに②が完成し、40代で老眼が始まったころ③が加わった。
秋、落葉の季節(木の葉髪という季語もある)にちなみ、③の話を─。
一口にハゲといっても20種類以上もあるというが、最も一般的なのは円形脱毛症と男性型脱毛症だ。
前者は病気で、後者は体質だ。
普通、ハゲと呼ばれるのは後者のほうで、日本人男性の約30%にみられる。
少数派だ─と書いて、気づいたのだが、政治家にはわれらの仲間がきわめて少ない。
歴代総理の頭部を思い浮かべてみても、吉田茂と中曽根康弘ぐらいだ。
これ、なにか理由があるのだろうか。このごろの政治がダメなのは、まさかそのせいではあるまいな。
銀嶺の果て [雑感小文]
銀嶺の果て
誤嚥(ごえん)性肺炎で思い出す人がある。
映画監督の谷口千吉さん。2007年の10月29日、亡くなった。95歳、誤嚥性肺炎だった。
生前、親しくお話を聞く機会があり、感銘を受けた。
谷口さんは戦前、早稲田大を出て、PCL(東宝の前身)に入り15年間、助監督。
3年間兵隊にとられ、戦後、『銀嶺(ぎんれい)の果て』で監督デビューした。
「会社からはプロデューサーになれと言われたのです。
ぼくはガッカリして、15年も助監督やったのにそれはあんまりだ。
ほれ通した女なんだから1度くらいは思いをかなえさせてくださいヨ。
それじゃ1本撮らせてやる。1本だけだぞ。
ええ、いいです。
ぼくは腹の中で1本撮って東宝をやめようと思って、そのことが結果的によかったんですね。
どうせ、これ1本だからってんで、思いきり全力投球で、やりたいようにやった。
山が好きだから山のシャシンをやりたい。それに黒澤(明監督=谷口さんの親友だった)が非常に相談にのってくれて、シナリオができて、それが思いがけずヒットしたことで、会社もこれはいけるかもしれんなと思ったのですね。
で、まぁ契約したわけです」
*
谷口千吉監督の第一作『銀嶺の果て』(1947年)は、登山経験を生かした山岳アクションで、新人の三船敏郎を一躍スターダムに押し上げた。
「1本だけ…」の約束だったが、大当たりしたので正式契約。
「ジャコ万と鉄」(49年)、「暁の脱走」(50年)などヒット作を連発、「芸術の黒澤、娯楽の谷口」といわれた。
「ですからね、契約してもいつクビになるかわからない時期のものは、下手は下手なりにどこか土性骨が通っていたと思うんです。
それが5年、6年たって映画監督という名が定着してくると、なにか器用に巧くまとめようとしてね、かえって駄作になっちゃった。
現状に安住すると、人間、どこかゆるんでくるんじゃないですか。
そこへいくと、黒澤(明)なんてね、撮り終わって5分もたてばもう後悔が始まって、それがどんどん増殖していくものなんだ、と。」
一期一会。
多くの人に会って、話を聞き、記事を書いてきたが、話の面白さ、魅力あふれる人柄…、最も忘れ得ぬ人の一人が谷口千吉さんだった。
誤嚥(ごえん)性肺炎で思い出す人がある。
映画監督の谷口千吉さん。2007年の10月29日、亡くなった。95歳、誤嚥性肺炎だった。
生前、親しくお話を聞く機会があり、感銘を受けた。
谷口さんは戦前、早稲田大を出て、PCL(東宝の前身)に入り15年間、助監督。
3年間兵隊にとられ、戦後、『銀嶺(ぎんれい)の果て』で監督デビューした。
「会社からはプロデューサーになれと言われたのです。
ぼくはガッカリして、15年も助監督やったのにそれはあんまりだ。
ほれ通した女なんだから1度くらいは思いをかなえさせてくださいヨ。
それじゃ1本撮らせてやる。1本だけだぞ。
ええ、いいです。
ぼくは腹の中で1本撮って東宝をやめようと思って、そのことが結果的によかったんですね。
どうせ、これ1本だからってんで、思いきり全力投球で、やりたいようにやった。
山が好きだから山のシャシンをやりたい。それに黒澤(明監督=谷口さんの親友だった)が非常に相談にのってくれて、シナリオができて、それが思いがけずヒットしたことで、会社もこれはいけるかもしれんなと思ったのですね。
で、まぁ契約したわけです」
*
谷口千吉監督の第一作『銀嶺の果て』(1947年)は、登山経験を生かした山岳アクションで、新人の三船敏郎を一躍スターダムに押し上げた。
「1本だけ…」の約束だったが、大当たりしたので正式契約。
「ジャコ万と鉄」(49年)、「暁の脱走」(50年)などヒット作を連発、「芸術の黒澤、娯楽の谷口」といわれた。
「ですからね、契約してもいつクビになるかわからない時期のものは、下手は下手なりにどこか土性骨が通っていたと思うんです。
それが5年、6年たって映画監督という名が定着してくると、なにか器用に巧くまとめようとしてね、かえって駄作になっちゃった。
現状に安住すると、人間、どこかゆるんでくるんじゃないですか。
そこへいくと、黒澤(明)なんてね、撮り終わって5分もたてばもう後悔が始まって、それがどんどん増殖していくものなんだ、と。」
一期一会。
多くの人に会って、話を聞き、記事を書いてきたが、話の面白さ、魅力あふれる人柄…、最も忘れ得ぬ人の一人が谷口千吉さんだった。