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医学記者半世紀、忘れえぬ医師・患者・夫婦の物語  [医学・医療・雑感小文]

 ご紹介いただきました丸山です。と申しましても、じつはどのようにご紹介いただいたのか、いま、私の耳では聞くことができませんでした。
 ごらんのように両耳に補聴器をつけていますが、これ、最大パワーのやつなんですが、それでもちょっと離れた人の声はほとんど入ってこないのです。
 でも、これをつけてないと、自分の声も聞こえないものですから、極端にいえば、自分の声を聞くための補聴器なんです。

 耳がこんなふうになったのは、10年前。2006年の5月の連休明けでした。
 そのことを話し始めると長くなりますが、耳がダメになって、とにかく不便、不自由なことだらけですが、なにがいちばん困るか、つらいか、といえば、人の話を聞くことができないことです。
 聞くことができなければ、会話は成立しません。
 人と会う楽しさ、よろこびというのは、会話を交わす、談笑する、しゃべり合って笑う楽しさだと思うのですが、それができないんですから、楽しさは半減です。

 老後の生活を、元気にいきいきと過ごすために、大切なことが二つあって、それは「きょういく」と「きょうよう」です。
 きょういくといっても、学校で先生に教わる「教育」ではなくて、「今日、行くところがある」の「今日、行く」で、「きょうよう」というのは、「今日、用がある」の「今日、用」です。
 現役で仕事をしていたときは、毎日、行くところがあって、毎日、用があったわけですが、リタイアすると、とたんに行くところも、用も減ってしまいます。
 で、家に引きこもって、ぼんやり過ごしていると、老け込んでしまいます。

 毎日、行くところや、用をつくって、活動的な生活をする、きょういく、と、きょうよう、そして、もう一つ、「今日、感動した」のきょうかん、が、心身の老化を防ぐためにとても大切だ、と思います。
 きょういく、きょうよう、きょうかん、これが老後のはつらつ元気の三要件だと言った人がいます。
 だれが、いつ、言ったか?
 いま、私が、言いました。

 じゃ、そういう自分はどうなんだ、残念ながら、耳がこわれた聾後、この聾は、龍と言う字の下に耳をかく聾、聾唖の聾ですが、聾後は、きょういくも、きょうようも、ガタンとへって、なんだか閉じこもり同然の生活になっています。

 そんなわけで、今日、ここで、このような機会を与えていただいたことは、非常に光栄で、本当にありがたいことでした。私のような名もない素人が、医学や医療についての有益な話などできるわけはないので、その起用には、ためらいがあったと存じますが、ま、「ええじゃないか」というご高配をいただいたのでしょう。

 主催関係者のみなさまに心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 さて、本題ですが、耳がこわれるまでの私の仕事は、あちこちの病院のお医者さんたちにお会いして、教えていただいたことを、雑誌や新聞の記事にすることでした。

 その仕事を始めたのは、昭和32年に、ある駅売りの新聞の文化部の記者になったときでして、昭和32年といえば、ご存じのように昭和の年数に25をたせば西暦になりますから、32+25は、57、1957年ですから、2017年で丁度60年、耳がこわれたのは2006年ですから、ざっと半世紀になるわけです。

 半世紀の間にお会いして、お話を伺った医師や医学者は1000人を超えると思います。
 1000人ものドクターにインタビューして、記事を書いてきて、じゃ、ずいぶん医学や医療の知識が豊富になったかといいますと、全然、そんなことはありませんで、記事を書くはじから、たちまち、どんどん忘れていきます。

 一を聞いて十を知るといいますが、付け焼刃の知識は、百を聞いても一も残りません。
 話の内容だけではなくて、一期一会といいますか、一度、お会いして、それきりのかたがほとんどなものですか、お会いした先生その人のことも、思い出せない。申し訳ないですけど、忘れてしまった先生がほとんどです。

 しかし、いまでもよく覚えている、忘れることのできない先生も何人もおられます。
 記者になって5、6年たったころでしたが、臨床の現場のお医者さんに、なにか面白い読み物的な話を書いてもらおうじゃないかということになりまして、ある大学病院の産婦人科の講師の先生に原稿を頼みに行ったことがあります。

 病院の構内にある喫茶店でお会いして、毎週1回、原稿かいてくださいとお願いしましたら、「どんな話がいいですか?」と聞かれました。
 そのとき、ふっと頭に浮かんだのが、当時テレビのたいへんな人気ドラマだった「ベン・ケーシー」でした。覚えていらっしゃる方もいられると思いますが、脳神経外科のドクターが主人公の医療ドラマです。
 で、「ベン・ケーシーみたいな話だったら面白いと思うんですが」と言ったんです。ま、その程度の編集者だったわけです。

 そうしましたら、先生は、一瞬、えっ? という顔をして、すぐ、「ああ、ベンケーシーね。あれ、私も面白いテーマだと思っていました。やってみましょう」「ありがとうございます」というんで、ひと月たちまして、原稿をもらいに行きました。

 そうしましたら、先生が、私の顔を見るなり、「いやあ、あのベンケーシーには参りましたよ」とおっしゃる。
「え、どうしてですか?」
「いや、あのとき、私はベンケーシーが何者か知らなかったんですよ。でも、素人が知ってるのに、医者が知らないんじゃ、沽券にかかわると思って、ま、医局に戻ってから聞けば、だれか知ってるだろうと思って、わかったような返事をしたんです。
 だけど、医局のだれに聞いても知らない、図書館に行って調べたけど、何を見ても、ベンケーシーなんて医学者はどこにも出てこない。
 いや、すっかり困って、これはもう教授に聞くしかないなあと思いました」と、そうおっしゃる。

 ま、いまだったら、インターネットで検索すれば、どさっと出てきますけど、当時はそんなものはありませんからね。

 困ったときの神頼みじゃないですが、医学部の教授といえば、知識人の代名詞のような大学教授のなかでも別格で、たいへんな偏差値秀才の成れの果て、大秀才の見本みたいな人で、こと医学に関しては知らないことはない、医学辞典が白衣着てる殿様みたいな人です。

 で、先生は、教授室に行って、「ベンケーシーという医学者をご存じでしょうか」と聞きました。
 そうしましたら、さすがの教授も、うーんと頭をひねって、
「ああ、ベン・ケーシーねぇ、あれは1954年だったかなあ、なにか論文読んだなあ」

「それで、結局、おわかりになったのですか?」
「ええ。正解は、掃除のおばちゃんが教えてくれましたよ」

 それ、聞いて、私はゲラゲラ笑いながら、医者という人たちはすごいなあ、と思いました。

 たしか、あのドラマの放送は、ウイークデーの夜9時か10時だったと思うのですが、ウイークデーのそんな時間にテレビを見ているような人は、一人もいなかった。
 それはその大学病院のその科の先生たちだけではなくて、どこの病院でもそうなんだろう、つまり、医者であるということはそういうことなんだ、そうでなければ、いい医者であり続けることはできないんだ、そう思ったら、身が引き締まるような気がしました。

 そして、自分も、せめて、そういう人たちの周辺で、いくらかでも記事を読んでくれる人のお役にたてるような仕事をしていきたいと思いました。

 で、やはり、同じころでしたが、野口英世記念医学賞という賞を受賞された、国立予防衛生研究所の所長の中村敬三先生をお訪ねしたことがありました。

 中村先生は、アレルギー研究の世界的権威でしたが、その先生に「アレルギーというのは、どういうものですか、簡単に教えてください」と言いましたら、「そう簡単に教えられたら苦労はないよ」と苦笑されまして、「詳しい話は、弟子の石坂くんに聞いてくれ。いまここの若手でいちばんいい仕事をしている研究者です」ということで、別棟の免疫血清室というところで、石坂公成(きみしげ)という先生にお会いしました。忘れ得ぬ医学者の最初の人です。

 いま、石坂公成先生といえば、アレルギーのIgE抗体の発見者として、医学や医療の関係者はもちろん、一般的にも知られている世界的な医学者です。

 アレルギーにはいくつも種類がありますが、圧倒的に患者が多くて、よく知られている花粉症とか、ぜんそくなどのⅠ型アレルギーというのは、スギ花粉とか、ダニとかカビとか、卵とかソバとか、人によってさまざまですが、そういう抗原、アレルギーの原因となるものが、体の中に入ってきたとき、それに対抗するIgE、免疫グロブリンのEという抗体が反応して、抗原抗体反応というものを起こして、ヒスタミンとかロイコトリエンとかいう物質が出てきて、くしゃみ、せき、鼻づまり、目のかゆみというような症状を起こします。

 そのIgE抗体を、アレルギーの人の血清、血液の上澄みの中から見つけたのが、石坂先生と共同研究者の照子夫人で、後年、文化勲章をはじめ、いろいろな賞を受賞しておられます。

 もちろん、私がお会いしたときの石坂先生は、まだ30代の半ばごろで、いかにも育ちのいい秀才といった感じの背の高い上品なハンサムでして、あとで知ったことですが、昔、経団連の会長だった石坂泰三さんは、先生のお父上の弟、つまり叔父さんに当たるそうです。

 で、その石坂先生に、アレルギーというのは、どういうものなんですか、と、幼稚な質問をしまして、なにしろ、そのころは、花粉症なんて病気はまだ全く知られてなくて、アレルギーといえば、子どものぜんそくとか、じんましんとか、素人は、それくらいしか知りません。

 日本で最初の花粉症の報告は、昭和36年に東京大学の荒木英斉先生がブタクサ花粉症を報告して、昭和39年に東京医科歯科大学の斎藤洋三先生がスギ花粉症を報告したのですが、でも、当時の有病率はまだとても低くて、昭和40年代でも数%でしかなかったのです。

 そのスギ花粉症が急にふえたのが、昭和54年で、3年後の57年に大量のスギ花粉が飛んで、患者がどっと激増したので、マスコミが大騒ぎして、スギ花粉症を知らない人はいなくなったわけですが、私が、石坂先生にお会いしたのは昭和36年の秋でしたから、そのときの記事の切り抜きを見ても、花粉症のカの字も出てきません。

 もっぱら、ぜんそくについて教えていただいたわけですが、いまでもはっきり覚えているのは、机の上のザラ紙に、用語とか、図式とか、いちいち書いて、ていねいに詳しく説明していただいたことです。

 そのころは、小型のテープレコーダなんてありませんから、取材は下手な字でメモをとるしかないんですが、そのときは、先生が書いてくださった何枚もの、その紙をいただきまして、それを見ながら記事を書きましたので、間違いのない、けっこういい記事ができまして、で、切抜きを取っておいたわけです。

 そんなわけで、石坂先生のことはとても印象強く脳裏に残っていました。
 それから何年もたって、昭和49年に先生が文化勲章を受章されまして、当時、先生はアメリカの有名なアレルギー研究所の所長をされていましたが、帰国された先生の講演を聴衆の一員として聴くことがあったり、また、石坂先生ご夫妻が、IgE抗体の発見を、アメリカのアレルギー学会で発表した、つまり、IgE抗体というものが、医学の歴史に記された日ですが、その2月20日を、日本アレルギー協会が「アレルギーの日」に決めたとか、そういうことのたびに、アメリカに行かれる前の若い研究者だった先生にインタビューしたことのある記者は、そう多くはいないだろう。
 もしかしたら、おれ一人かもしれないなと思って、仲間内でアレルギーの話が出たりすると、おれのアレルギー学は石坂公成先生直伝だからなんて、バカな軽口を叩いたりしてました。

 さて、そうして、いまから17年前、2000年の4月のことですが、その年の日本国際賞の受賞者の一人に石坂先生が選ばれました。

 日本国際賞といいますのは、ご存じのかたも多いでしょうが、鈴木善幸内閣の総理府長官だった中山太郎さんが、「日本にもノーベル賞なみの世界的な賞を」という提言に松下幸之助さんが賛同されて、創設されたもので、母体になる国際科学技術財団は、松下さんのほか、各界の個人や団体からの寄付金を基金にして、その利子で運営されています。

 毎年、二つの分野を授賞対象として、世界各国の学者・研究者から推薦された候補者のなかから各分野1名ずつの受賞者を決めています。
 この賞を受賞してからノーベル賞に選ばれた人が8人、ノーベル賞受賞後の研究業績でこの賞に選ばれた人が1人いまして、それは江崎玲於奈博士です。ちなみに、賞金は1人5000万円です。

 授賞式典は、東京・赤坂の国立劇場で、天皇・皇后両陛下がご臨席になり、衆参両院議長と最高裁長官、つまり三権の長と、所管大臣の文部科学大臣、在日各国の大使、各界の著名人約1000人が出席して行われます。

 この年、2000年の第16回、日本国際賞の受賞者は、「都市計画」分野のイアン・L・マクハーグという、アメリカのペンシルベニア大学名誉教授と、「生体防御」分野の石坂公成博士、やはりアメリカのラホイア・アレルギー免疫研究所名誉所長でした。

 ステージの上には、上手のほうに天皇・皇后両陛下のお席がしつらえてありまして、下手の方に椅子が四つ並んでいて、受賞者席になっていました。
 でも、マクハーグ博士の右どなりには同伴の夫人がすわっていましたが、石坂博士のとなりには照子夫人の姿が見えない。どうされたのだろう。

 まだ式典は始まってなくて、両陛下もお入りになっていられないので、ちょっと遅れてこられるのかなあ、と思っていました。

 石坂先生にとって、照子夫人という方は、単に配偶者というだけではなくて、共同研究者ですから、ピエール・キュリーとマリー・キュリー、キュリー夫人のような関係なんですね。
 その人が出席されないはずはないんで、どうされたんだろう? って、記者席の一隅で、気をもんでいたわけですが、そのわけは天皇のお言葉でわかりました。

 そのとき記者席に配布された「おことば」のコピーがありますので、おそれ多いのですが、一部を読ませていただきます。

「石坂博士のご研究は、人の血液1ミリリットル中に100万分の1グラムしか含まれていない免疫グロブリンEをその抗体を用いて見いだすなど、今日多くの人々を苦しめているアレルギー疾患の解明に大きく貢献し、その成果はただちに診断や治療に応用されるようになりました。

 この博士のご研究に大きく寄与された令夫人が、ご病気のため、この席で喜びを共にされないことを誠に残念に思います。

 かつて文化勲章受章にあたって帰国されたとき、お二人にご研究のことを伺ったことが懐かしく思い起され、博士のお気持ちを深くお察しいたします」

 このとき、石坂博士のお顔がみるみる紅潮し、赤みをおびていくのが、記者席からの遠目でもわかりました。

 あとで知ったことですが、照子夫人は、長期の療養の必要な病気になられたので、石坂先生は、アメリカでの仕事を辞職されて、照子夫人の郷里の山形へ帰られて、介護をされているということでした。

 もし、石坂先生が、アメリカに留まって、研究を続けておられたら、間違いなくノーベル賞だっただろうという人もいますし、いや、IgE抗体の発見自体がノーベル賞に値するともいわれていますが、しかし、とにかく、先生にとっては、ノーベル賞よりも、研究の継続よりも、奥様のほうがずっと大切だったのだろうと察せられます。

 そういったことは、人間の大きさも、仕事のスケールやレベルも、天と地ほど違いますが、われわれ下々の庶民でも同じなんじゃないでしょうか。
「仕事と家庭、家族、どっちが大事か」というのは、よく問題になることですが、仕事があっての家庭だし、家庭があっての仕事でもあるので、二者択一するような問題じゃないと思いますが、あえていえば、家族がみんな元気だったら、仕事のほうが大事です。

 しかし、家族のだれかが生き死ににかかわる重い病気にかかったら、それはもう家族が大事にきまっています。

 だから「健康」ほどありがたい、大切なものはないわけでして、幕末の歌人、橘曙覧の歌に、

 たのしみは、家内五人いつたりが、
 風だにひかで ありあえるとき 
 というのがあります。

 やうちというのは、家の内、
 いつたりは5人。自分と妻と3人の子どものことで、
 たのしみは、家族5人が、風邪一つひかず、元気でいることほど、たのしい、ありがたいことはないというので、ホントにそのとおりだと思います。

 人の幸福の基盤、いちばん根っこのところにあるのが、「家族の絆」なのだと思います。

 こんな話を、ある脳神経外科の教授に聞いたことがあります。
 非常に重い脳卒中の人が、その大学病院に搬送されてきまして、救急救命で、なんとか命はとりとめたのですが、意識が戻ったときは、口はきけない、尿も便も垂れ流し…という状態だったそうです。

 患者さんは50代の男性で、農家のご主人でしたが、冬の寒い日に家で倒れて、救急車で運ばれて、気がついたら、病院のベッドの上で、そういうことになっていた。

 ICU=集中治療室で、感染の問題なんかがあるので、家族はガラスごしにしか、ご病人を見ることができません。

 口がきけないので、意思表示をするのは、看護師さんが、目の前にかざしてみせる、アイウエオの五十音の表を、どうにか動く片方の手の指で指して、言いたいことを伝えるわけです。

 で、「ご気分は、どうですか?」と聞きますと、その五十音図のまず、コの字を指して、それから、ロの字を指して、そして、セの字、コ、ロ、セ。

「どこか、痛いところはないですか?」コ、ロ、セ。
「顔色、いいですよ」コ、ロ、セ。
 何を聞いても、何を言っても、返事は、コ、ロ、セ。コ、ロ、セの一点張り。

 看護師さんも、担当の先生も、ほとほと困ってしまって、どうしたらいいでしょうと教授に相談しました。
 教授は、「家族に会わせなさい」と指示しました。

 おかみさんが、やってきて、あれ、なんていうんですかね、消毒した、エプロンみたいな上っ張りを着て、大黒様の帽子みたいなやつをかぶって、集中治療室に入って、ご主人の手を握って言ったそうです。

「お父さん、いいんだよ! 口なんか利けなくたって、いいんだよ! 手足が動かなくても、いいんだよ! 生きててくれれば、それでいいんだからね。
 3月には、昭が高校卒業だけんど、お父さんが死んじまったら、めでたくもなんともないべ。
 お父さんがいてくれるから。めでたいんだべ。だから、絶対死なせないよ。私が必ず退院させてやっから、お父さんも、がんばってね」

 その日から、患者さんは、がらっと変わったそうです。
 表情が明るい、ひたむきな感じになって、先生や看護師さんのいうことも素直に聞いて、治療に積極的に協力するようになって、リハビリも一所懸命やって、たどたどしいけど口もきけるようになって、五カ月ほどたって退院するときには、こけてもいいから、つえを持ってこいといって、つえをついて、自分の足で歩いて退院したそうです。

 これが本当のリハビリテーションですと、教授は言いました。 
 リハビリテーションの本来の意味は、権利、また名誉の回復、復権という意味で、その人が、自分の生きていく世界で、自分の居場所をちゃんと見つけられること、それがリハビリテーションのゴールですと、教授は言われましたが、それは同時に人の幸福のスタート、原点なのだと思います。

 家庭の幸福は、諸悪の根源といったのは、太宰治ですが、それは、言い換えると、人の幸福の根源は、家庭にあるということだと思います。

 ただ、そこで止まって、固まってしまうと、我が家さえよければいいという、小さなエゴイズムになってしまい、それがひいては諸悪の根源に通じるのではないでしょうか。

 そうではなくて、本当に幸福な人というのは、人を思いやる心の豊かさ、心のゆとりをもっている人なのだと思います。

 大震災のとき、被災地へ向かったボランティアの人、義援金を寄せた人、何をしたらいいか、何ができるかと、かんがえ、祈った人、そうした人たちは、みんな本当の意味で幸福な人、幸福な家庭をもっている人なのだと思います。

 みなさん、ご家庭を、ご家族を、だいじになさってください。
 とりとめもない話を聞いていただいて、ありがとうございました。

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