バカもカゼをひく [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(7)
バカもカゼをひく
巨人のグアム・キャンプで王監督以下江川、原、金城、山本雅などがカゼでダウンした、と新聞(スポーツ新聞ではない)のスポーツ面にでかでかと載っていた。
おまけに角は足首の捻挫、西本聖と水野は肩が張って重い、定岡も足の調子がもうひとつだとかで、巨人の行く手には早くも暗雲が立ちこめはじめた模様である。
つまり、ことしもまたプロ野球がおもしろくなりそうだ。
同じ日の新聞には、各球団のカゼ予防対策という記事も載っていた。
西武はうがい励行、もしカゼをひいたら罰金5万円、阪急はうがいと汗をかいたらすぐ着替え、近鉄はうがいと気力、中日はうがいと全選手にインフルエンザの予防注射・・・といったあんばいで、西武の罰金と近鉄の気力のほかはとくに変わったものはなく、まるで小学生相手の訓示のようにうがいの励行をすすめているだけである。
しかし、うがいもけっこうだが、もう一つ、だいじなことを忘れている。
いや、忘れているのではなくて、おそらく、ご存じないのだろう。
日本プロ野球の発展のために教えておきますが、それは手を洗うことである。
手を洗うことと、カゼの予防、一見なんの関係もないようだが、ちゃんとあるのである。
カゼは、ふつう、患者のセキやクシャミで空気中に飛び出したウィルスを吸い込んで感染すると思われている。
そういうケースも確かに多いが、患者の口から出たウィルスはしばらく空気中を漂ったあと、やがて家具や壁、カーテン、あるいは衣服などにくっついて、ざっと3時間ばかりは生きつづける。
当然、それはほかの人の手や指にもつくことになり、ウィルスのついてその手で目や鼻や口などの粘膜をさわると、そこからカゼに感染する。
そういう例がずいぶん多いことが、最近の研究でわかってきた。
ある病院では、赤ん坊に肺炎を起こすRSウイルスが院内で流行、原因を追究したらドアのノブが犯人だったそうである。
むろん、赤ん坊が直接ドアのノブにさわるわけはない。
母親や看護婦の手を経由してきたウィルスに、抵抗力のない乳児がひとたまりもなく感染したのである。
こうした手からのカゼの感染を防ぐには、とにかく、手をよく洗うしかない。
せっけんを使って、水道の水で流し洗いをする。カゼの予防はまず手洗い、山口組なんかのおニイさんたちは、ついでに足も洗ってもらうとなおよろしい。
ところで、私事であるが、わたしはこの3年ほどカゼをひいたことがない。
巷間、バカはカゼをひかないという俗説があるが、自分ではこの3年とくにバカになったようでもないし、逆にいえば、3年前までそれほどリコウだったとも思わない。
カゼをひかなくなった理由は、わたしの知能の変化によるものではなく、多分、毎朝(朝でない日もあるが)寝起きにおこなう乾布摩擦と毎日のんでいるビタミンCのせいだろうと思う。
乾布摩擦は皮膚をきたえ、自律神経のバランスをよくする効果がある。
これは寒さに強く、また外界の温度の変化にすばやく適応できるようになるということで、つまりカゼをひきにくくなる理屈である。
ビタミンCがカゼの予防と治療によく効くというのは、アメリカの生化学者でノーベル賞を2度も受賞した(化学賞と平和賞)ライナス・ポーリングが言いはじめたことで、その後の研究で、ビタミンCにカゼのウィルスの核酸を崩壊させる作用があることが解明されている。
このビタミンCの粉末(アルコルビン酸)を、わたしは毎食後ミミカキ1杯(約1㌘)のんでいる。
そんなわけで、ことカゼに関するかぎり、わたしは江川や原はおろか、“世界の王”よりもツヨいことが、今回はからずも、立証されたしだいである。
しかし、カゼをひかなくなったのはいいが、このところ、たまご酒をのんで早寝をするたのしみを味わうことができなくなったのは、ちょっとサビシイことではある。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(7)
バカもカゼをひく
巨人のグアム・キャンプで王監督以下江川、原、金城、山本雅などがカゼでダウンした、と新聞(スポーツ新聞ではない)のスポーツ面にでかでかと載っていた。
おまけに角は足首の捻挫、西本聖と水野は肩が張って重い、定岡も足の調子がもうひとつだとかで、巨人の行く手には早くも暗雲が立ちこめはじめた模様である。
つまり、ことしもまたプロ野球がおもしろくなりそうだ。
同じ日の新聞には、各球団のカゼ予防対策という記事も載っていた。
西武はうがい励行、もしカゼをひいたら罰金5万円、阪急はうがいと汗をかいたらすぐ着替え、近鉄はうがいと気力、中日はうがいと全選手にインフルエンザの予防注射・・・といったあんばいで、西武の罰金と近鉄の気力のほかはとくに変わったものはなく、まるで小学生相手の訓示のようにうがいの励行をすすめているだけである。
しかし、うがいもけっこうだが、もう一つ、だいじなことを忘れている。
いや、忘れているのではなくて、おそらく、ご存じないのだろう。
日本プロ野球の発展のために教えておきますが、それは手を洗うことである。
手を洗うことと、カゼの予防、一見なんの関係もないようだが、ちゃんとあるのである。
カゼは、ふつう、患者のセキやクシャミで空気中に飛び出したウィルスを吸い込んで感染すると思われている。
そういうケースも確かに多いが、患者の口から出たウィルスはしばらく空気中を漂ったあと、やがて家具や壁、カーテン、あるいは衣服などにくっついて、ざっと3時間ばかりは生きつづける。
当然、それはほかの人の手や指にもつくことになり、ウィルスのついてその手で目や鼻や口などの粘膜をさわると、そこからカゼに感染する。
そういう例がずいぶん多いことが、最近の研究でわかってきた。
ある病院では、赤ん坊に肺炎を起こすRSウイルスが院内で流行、原因を追究したらドアのノブが犯人だったそうである。
むろん、赤ん坊が直接ドアのノブにさわるわけはない。
母親や看護婦の手を経由してきたウィルスに、抵抗力のない乳児がひとたまりもなく感染したのである。
こうした手からのカゼの感染を防ぐには、とにかく、手をよく洗うしかない。
せっけんを使って、水道の水で流し洗いをする。カゼの予防はまず手洗い、山口組なんかのおニイさんたちは、ついでに足も洗ってもらうとなおよろしい。
ところで、私事であるが、わたしはこの3年ほどカゼをひいたことがない。
巷間、バカはカゼをひかないという俗説があるが、自分ではこの3年とくにバカになったようでもないし、逆にいえば、3年前までそれほどリコウだったとも思わない。
カゼをひかなくなった理由は、わたしの知能の変化によるものではなく、多分、毎朝(朝でない日もあるが)寝起きにおこなう乾布摩擦と毎日のんでいるビタミンCのせいだろうと思う。
乾布摩擦は皮膚をきたえ、自律神経のバランスをよくする効果がある。
これは寒さに強く、また外界の温度の変化にすばやく適応できるようになるということで、つまりカゼをひきにくくなる理屈である。
ビタミンCがカゼの予防と治療によく効くというのは、アメリカの生化学者でノーベル賞を2度も受賞した(化学賞と平和賞)ライナス・ポーリングが言いはじめたことで、その後の研究で、ビタミンCにカゼのウィルスの核酸を崩壊させる作用があることが解明されている。
このビタミンCの粉末(アルコルビン酸)を、わたしは毎食後ミミカキ1杯(約1㌘)のんでいる。
そんなわけで、ことカゼに関するかぎり、わたしは江川や原はおろか、“世界の王”よりもツヨいことが、今回はからずも、立証されたしだいである。
しかし、カゼをひかなくなったのはいいが、このところ、たまご酒をのんで早寝をするたのしみを味わうことができなくなったのは、ちょっとサビシイことではある。
マルハゲドンの大予言 [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(6)
マルハゲドンの大予言
鏡の前であたまにクシを入れながらふと『ガザに盲いて』という小説のことを思い出した。
20年ほど前に死去したイギリスの作家、オルダス・ハックスリーによって書かれたこの小説は、ひとりの男が鏡に向かってネクタイを結びつつ、なんとも晦渋な思索的想念にふける場面ではじまる。
それが小さな活字が隙間なく詰まったページで10数ページもつづくのである。
昔むかしのその昔、学生時代に幾度かこの小説を読みかけては、そのつど冒頭の数ページで降参し、ついに男がネクタイを結びおえるところまでも読み通すことができなかった。
だから小生の頭の中では、いまもハックスリー(の作中人物)は、鏡の前でネクタイを結びつづけている。
「似たようなことを、おれもいまやっている」と思った。
もっとも、それは鏡の前にいつまでも突っ立っている点が似ているだけで、小生の場合は別段深遠な思索などにふけっているわけではない。
鏡へ当てた目線はもっぱら頭部に注がれている。
いつだったか、友人の内科医に、
「おまえの額はなんだかグランスみたいになってきたな」といわれて思わず笑ったことがある。
ひでェこといやがると思ったが、ほんとのことだから笑うしかしかたがなかった。
小生の頭部では、久しい以前から前額から頭頂にかけて(チョンマゲ頭でいえばサカヤキに当たる区域)の過疎化がいちじるしく進行中である。
広く抜け上がった額がテカテカ光っているさまは、なるほど、内科医が連想したようなモノに見えなくもない。
対応策として、かつては七・三に分けていた髪型のデザインを変更し、さしずめナカソネ分けとでも呼ぶべきヘア・スタイルを採用しているが、草木寥寥たる荒蕪地を隠蔽するのにそれは決して十分な処置とはいえなかった。
そこでさらに思い切って側頭部の全毛髪をあげて動員するオールバックならぬオールサイドにしてみる。
するとたしかにインペイ効果は上がるのだが、なにかいかにも作為的な感じがロコツに出すぎて、ハゲおとこのデリケートな自意識を刺激するのである。
で、ふたたび首相スタイルに戻し、こんどは後頭部からの応援を求め・・・と、しつこくそんなことを繰り返していると、どうしてもハックスリーのネクタイになってしまうわけだ。
2、3か月前のことだが、トイレの中で新聞を開いたら、いきなり、「マルハゲドンの大破局」というでッかい文字が目に飛び込んできて、一瞬便意が消失しかけた。
よく見直したら『ハルマゲドンの大破局』なる本の広告だったが、こんなまぎらわしいタイトルをつけられてはメイワクである。
この本の著者は、以前にも『ノセルトダマスの大予言』とかいうヘンなタイトルの本を出したことがあって、“本番”を拒否した個室浴場従業員のハナシかと思った―というのは、いま思いついたウソだが、とにかく、人騒がせな人物である。
なにしろ、こちらは毎朝、枕の上に散らばった髪の毛を数えては、なんとも心細くセツない気持ちになっているのである。
そこへ―、「核戦争以上のマルハゲドンが迫っている!」などとやられては、便意だって止まろうというものだ。
しかし、それもこれもいまとなっては過ぎた話で、小生は最近ついに多年の脱毛の悩みから解放されたのである。
といっても、もはや抜ける毛が1本もなくなったというのではない。
近所の床屋のマスターにすすめられた養毛剤が、じつにドラマチックに効いて、使いはじめたその日からピタリと脱毛が止まったのである。
床屋でしか売っていない、この『テタリス』という名の養毛剤は、なんでも20種類以上のアミノ酸とビタミンE、B6などを配合したもので、頭皮に直接栄養分を与えて、抜け毛を防ぎ、発毛を促すのだそうだ。
発毛効果のほうは、まだ2週間ぐらいしかたってないので、なんともいえないが、弱々しく萎えちぢんでいた毛が生気と太さをとり戻しつつあるのは事実である。
だから脱毛が止まったのだろう。私の胸はいま希望とよろこびにうちふるえている!
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(6)
マルハゲドンの大予言
鏡の前であたまにクシを入れながらふと『ガザに盲いて』という小説のことを思い出した。
20年ほど前に死去したイギリスの作家、オルダス・ハックスリーによって書かれたこの小説は、ひとりの男が鏡に向かってネクタイを結びつつ、なんとも晦渋な思索的想念にふける場面ではじまる。
それが小さな活字が隙間なく詰まったページで10数ページもつづくのである。
昔むかしのその昔、学生時代に幾度かこの小説を読みかけては、そのつど冒頭の数ページで降参し、ついに男がネクタイを結びおえるところまでも読み通すことができなかった。
だから小生の頭の中では、いまもハックスリー(の作中人物)は、鏡の前でネクタイを結びつづけている。
「似たようなことを、おれもいまやっている」と思った。
もっとも、それは鏡の前にいつまでも突っ立っている点が似ているだけで、小生の場合は別段深遠な思索などにふけっているわけではない。
鏡へ当てた目線はもっぱら頭部に注がれている。
いつだったか、友人の内科医に、
「おまえの額はなんだかグランスみたいになってきたな」といわれて思わず笑ったことがある。
ひでェこといやがると思ったが、ほんとのことだから笑うしかしかたがなかった。
小生の頭部では、久しい以前から前額から頭頂にかけて(チョンマゲ頭でいえばサカヤキに当たる区域)の過疎化がいちじるしく進行中である。
広く抜け上がった額がテカテカ光っているさまは、なるほど、内科医が連想したようなモノに見えなくもない。
対応策として、かつては七・三に分けていた髪型のデザインを変更し、さしずめナカソネ分けとでも呼ぶべきヘア・スタイルを採用しているが、草木寥寥たる荒蕪地を隠蔽するのにそれは決して十分な処置とはいえなかった。
そこでさらに思い切って側頭部の全毛髪をあげて動員するオールバックならぬオールサイドにしてみる。
するとたしかにインペイ効果は上がるのだが、なにかいかにも作為的な感じがロコツに出すぎて、ハゲおとこのデリケートな自意識を刺激するのである。
で、ふたたび首相スタイルに戻し、こんどは後頭部からの応援を求め・・・と、しつこくそんなことを繰り返していると、どうしてもハックスリーのネクタイになってしまうわけだ。
2、3か月前のことだが、トイレの中で新聞を開いたら、いきなり、「マルハゲドンの大破局」というでッかい文字が目に飛び込んできて、一瞬便意が消失しかけた。
よく見直したら『ハルマゲドンの大破局』なる本の広告だったが、こんなまぎらわしいタイトルをつけられてはメイワクである。
この本の著者は、以前にも『ノセルトダマスの大予言』とかいうヘンなタイトルの本を出したことがあって、“本番”を拒否した個室浴場従業員のハナシかと思った―というのは、いま思いついたウソだが、とにかく、人騒がせな人物である。
なにしろ、こちらは毎朝、枕の上に散らばった髪の毛を数えては、なんとも心細くセツない気持ちになっているのである。
そこへ―、「核戦争以上のマルハゲドンが迫っている!」などとやられては、便意だって止まろうというものだ。
しかし、それもこれもいまとなっては過ぎた話で、小生は最近ついに多年の脱毛の悩みから解放されたのである。
といっても、もはや抜ける毛が1本もなくなったというのではない。
近所の床屋のマスターにすすめられた養毛剤が、じつにドラマチックに効いて、使いはじめたその日からピタリと脱毛が止まったのである。
床屋でしか売っていない、この『テタリス』という名の養毛剤は、なんでも20種類以上のアミノ酸とビタミンE、B6などを配合したもので、頭皮に直接栄養分を与えて、抜け毛を防ぎ、発毛を促すのだそうだ。
発毛効果のほうは、まだ2週間ぐらいしかたってないので、なんともいえないが、弱々しく萎えちぢんでいた毛が生気と太さをとり戻しつつあるのは事実である。
だから脱毛が止まったのだろう。私の胸はいま希望とよろこびにうちふるえている!
タバコ雑感 [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(5)
タバコ雑感
タバコを1日25本吸う人は11人に1人が肺がんで死んでいる―と、平山雄・国立がんセンター疫学部長がいっている。
12万人余の日本人を16年間継続観察したデータだそうだ。
平山先生はさらにこうもいっている。
1日50本以上の人は7人に1人が肺ガンで死んでいるが、吸わない人のそれは107人で1人に過ぎない。
なぁんだ、1日50本以上もタバコを吸って、7人のうち6人は大丈夫なのか、
それならオレだって・・・とタカをくくり、そのくせ一方では確率何百万分の1(どころか、何億分の1)の宝くじを買ったりする。
肺ガンにはならないだろう。
宝くじには当たるかもしれない、と思っているわけだ。
ずいぶんノー天気、気楽なものであるが、案外こういう人間のほうが長生きするのかもれしれない。
もちろん、こう言ったからとて、タバコの弁護をしているのではない。
こんなことはいまや常識だけれど、タバコはなにも肺ガンの原因になりやすいだけではない。
喉頭、口腔、食堂、膀胱、子宮などのガンも、喫煙者は非喫煙者の何倍も多いというし、脳卒中や心臓病もタバコがその要因の大きな一つになっている。
先ごろ、パリにあるインポテンツ調査研究センターの3人の学者が、英国の医学専門誌『ランセット』に発表した研究レポートによれば、インポテンツの8割はペニスの中の血管の機能低下によるものであり、これは常習的な喫煙や脂肪分の多い食事と密接な関係がるという。
これも別段意外なことではない。
とっくに証明されているようにニコチンは血管毒、神経毒だからだ。
それにしても、インポテンツ調査研究センターなんて、いかにもパリならではの感じであるが、これはまた別の話になる。
ピェール・ルイスというフランスの小説家が、ギリシャ文明と近代文明とを快楽(彼によれば唯一の価値あるもの)の視点から比較して、近代人は新しい快楽をたった一つしか発明していない、それはタバコだ―といっている。
そのほかのことでギリシャ人が享受していた快楽を、われわれが全く失わずに保有していると仮定して、さてわれわれが彼らにまさっているのは、少々の紫煙の量のみだというのである。
このユニークな学説?を、アルべール・ティボーデは、名著『小説の美学』の冒頭に引用して、こんなふうに述べている。
「私はピェール・ルイスはもう一つの新しい快楽、もしくは快適な時間つぶしを忘れていたことを指摘しよう。
しかも、小説家である人間がそれを忘れているのは心外だ。
つまり私のいうのは小説の読書である。
ギリシャ人は煙草も吸わず、小説も読まなかった。
彼等は時間を快くつぶさせる、この二つの方法を全く知らなかったのだ。(生島遼一訳)」
なるほど、だからこそ、おもしろい小説を読みながら、タバコに火をつけて一服くゆらすときの快感―あれはつまり快楽の二乗であるわけだとナットクしたしだいだが、そこにもう一つ、ギリシャ人も知っていた快楽(むろん、酒のことである)が加わると、もういうことはない。
たとえば、『越乃寒梅』などという酒のさかずきをゆっくり口に運びながら池波正太郎や藤沢周平を読む。
ビヤン・シャンブレ(飲みごろ)の赤ワインのグラスを傾けながら丸谷才一のページをめくる・・・というように酒と作家の間にも相性みたいなものがあるのではないか。
思いつきでいえば、野坂昭如には焼酎が合いそうだし。
吉行淳之介にはブランデー、開高健にはウイスキー、川上宗薫にはビール、赤川次郎にはキリン・レモン・・・というように。
また話がずれたが、先日、科学万博を見物に行った人から『中南梅』というタバコをもらった。
中国館で売っている(270円だった、と)そのタバコは、新品種のタバコの葉から有害物質をへらし、薬草をブレンドした「安全タバコ」で、高血圧や心臓病、気管支炎に効くのだそうな。
一服やってみて、これは日本たばこ産業株式会社の思わぬ伏敵ではないかと思った。
つまり、こんなまずいものを吸うくらいならと、タバコそのものをやめる人がふえるのではあるまいか?
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いた旧稿の再利用である。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(5)
タバコ雑感
タバコを1日25本吸う人は11人に1人が肺がんで死んでいる―と、平山雄・国立がんセンター疫学部長がいっている。
12万人余の日本人を16年間継続観察したデータだそうだ。
平山先生はさらにこうもいっている。
1日50本以上の人は7人に1人が肺ガンで死んでいるが、吸わない人のそれは107人で1人に過ぎない。
なぁんだ、1日50本以上もタバコを吸って、7人のうち6人は大丈夫なのか、
それならオレだって・・・とタカをくくり、そのくせ一方では確率何百万分の1(どころか、何億分の1)の宝くじを買ったりする。
肺ガンにはならないだろう。
宝くじには当たるかもしれない、と思っているわけだ。
ずいぶんノー天気、気楽なものであるが、案外こういう人間のほうが長生きするのかもれしれない。
もちろん、こう言ったからとて、タバコの弁護をしているのではない。
こんなことはいまや常識だけれど、タバコはなにも肺ガンの原因になりやすいだけではない。
喉頭、口腔、食堂、膀胱、子宮などのガンも、喫煙者は非喫煙者の何倍も多いというし、脳卒中や心臓病もタバコがその要因の大きな一つになっている。
先ごろ、パリにあるインポテンツ調査研究センターの3人の学者が、英国の医学専門誌『ランセット』に発表した研究レポートによれば、インポテンツの8割はペニスの中の血管の機能低下によるものであり、これは常習的な喫煙や脂肪分の多い食事と密接な関係がるという。
これも別段意外なことではない。
とっくに証明されているようにニコチンは血管毒、神経毒だからだ。
それにしても、インポテンツ調査研究センターなんて、いかにもパリならではの感じであるが、これはまた別の話になる。
ピェール・ルイスというフランスの小説家が、ギリシャ文明と近代文明とを快楽(彼によれば唯一の価値あるもの)の視点から比較して、近代人は新しい快楽をたった一つしか発明していない、それはタバコだ―といっている。
そのほかのことでギリシャ人が享受していた快楽を、われわれが全く失わずに保有していると仮定して、さてわれわれが彼らにまさっているのは、少々の紫煙の量のみだというのである。
このユニークな学説?を、アルべール・ティボーデは、名著『小説の美学』の冒頭に引用して、こんなふうに述べている。
「私はピェール・ルイスはもう一つの新しい快楽、もしくは快適な時間つぶしを忘れていたことを指摘しよう。
しかも、小説家である人間がそれを忘れているのは心外だ。
つまり私のいうのは小説の読書である。
ギリシャ人は煙草も吸わず、小説も読まなかった。
彼等は時間を快くつぶさせる、この二つの方法を全く知らなかったのだ。(生島遼一訳)」
なるほど、だからこそ、おもしろい小説を読みながら、タバコに火をつけて一服くゆらすときの快感―あれはつまり快楽の二乗であるわけだとナットクしたしだいだが、そこにもう一つ、ギリシャ人も知っていた快楽(むろん、酒のことである)が加わると、もういうことはない。
たとえば、『越乃寒梅』などという酒のさかずきをゆっくり口に運びながら池波正太郎や藤沢周平を読む。
ビヤン・シャンブレ(飲みごろ)の赤ワインのグラスを傾けながら丸谷才一のページをめくる・・・というように酒と作家の間にも相性みたいなものがあるのではないか。
思いつきでいえば、野坂昭如には焼酎が合いそうだし。
吉行淳之介にはブランデー、開高健にはウイスキー、川上宗薫にはビール、赤川次郎にはキリン・レモン・・・というように。
また話がずれたが、先日、科学万博を見物に行った人から『中南梅』というタバコをもらった。
中国館で売っている(270円だった、と)そのタバコは、新品種のタバコの葉から有害物質をへらし、薬草をブレンドした「安全タバコ」で、高血圧や心臓病、気管支炎に効くのだそうな。
一服やってみて、これは日本たばこ産業株式会社の思わぬ伏敵ではないかと思った。
つまり、こんなまずいものを吸うくらいならと、タバコそのものをやめる人がふえるのではあるまいか?
おい悪魔! [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(4)
おい悪魔!
これからは恋よ仕事よ水ぬるむ
いつごろ何で読んだか忘れたが、いまこんな句を思い出した。
だれの作であるかは知らない。
「ゲーテはあらゆることを言っている」というが、これはまさかゲーテではあるまい。
水ぬるむ春4月は、世の中にどっと新人がふえるときである。
だが、いまどきの新入社員で、ラブ・アフェアの一つや二つを引きずってない者は珍しいだろうし、異動で飛ばされたり、舞い戻ったりした社員は「恋」どころではないだろう。
ま、それはともかく、このさい「仕事」というものについて、ちょっと考えてみよう。
アメリカの精神医学者W・E・オーツの『仕事中毒を治す法』(川勝久訳)のなかに、新しい空軍士官の飛行訓練の話がでていて、訓練中に失敗する士官には、あまりにも一生懸命になりすぎるタイプが多い、という。
飛行機の操縦には、気流との調和が必要である。
しかし気負いすぎの士官は、気流のことを無視して自分だけで飛ぼうとし、自分が最悪の敵になってしまう―というのである。
このテの仕事人間は、われわれのまわりにもけっこう多い。
頭も悪くないし、仕事もよくできるのだが、気持ちにゆとりがない。
偏狭な完全主義者とでもいうのか、自分にもきびしいが他人のミスを大目に見ることもできない。
相手が部下であれば冷たく容赦なく叱責する。
部下は顔で服従して、心では、
「なんてケツの穴のちッちェえ男だ、
そのうちきっと痔になるぞ!」などと思っている(にちがいない)。
こうしたパラノ型仕事人間に対する“トランキライザー”として、オーツ博士は次のような助言を与えている。
① あえてなりゆきにまかせよ。
② 他の人たちにいくつかのことをさせよ。
③ あまりにも一生懸命にやりすぎるな(頭を冷やせ)。
④ 姿を消せ(休暇をとり、旅にでて何もしない時間を過ごせ。)
⑤ 身体がダメになる前に身体がだす信号に注意せよ。
身体がだす警告信号にはさまざまなものがある。
痛みは、その最も基本的な形であって、われわれはそれによって生体の異常をいち早く知ることできる。
もし、痛みというものがなかったらどのようなことになるか。
生まれながらに痛みの感覚が欠けた「先天性無痛症」という異常体質があるが、このような人は、たとえ骨が折れてもまるで平気だし、自分の体の肉が焼けこげる臭いでようやくヤケドに気づくといったあんばいである。
だから、体中、傷痕やあざだらけである。
内臓に起こったさまざまな病変―たとえば、胃炎、虫垂炎、胆石、子宮外妊娠などなど―を知ることもできない。
警告信号としての痛みは、生体にとって不可欠なものである。
組織における従業員の不平不満もときに同じような警告信号の役目をするのではあるまいか。
これを頭から無視する(あるいは抑圧する)経営者は先天性無痛症みたいなものだろう。
ただ、生体の痛みにも無用で有害な痛み(警告の役目はとっくに終わっているのに、いつまでもしつこく続く痛み)があるように、組織の“痛覚”にも有害無用なものがある。
むろん、こんなこと、だれでも知っていることではあるが。
これも何かで読んだのだが、ある会社の社長が、新入社員にたいする訓示で、「おい悪魔」という呪文を教えた。
おこるな、いばるな、あせるな、くさるな、まけるな(自分に)の頭文字を並べたものである。
新入社員どころか、いいトシして相も変わらず、怒りっぽくて、いばりたがって、あせって、くさって、自分の怠け心に負けてばかりいるこちとらは、いまだに「おい悪魔」と自らを呼びつづけねばならない。
おい悪魔―なかなか守るにむつかしい教訓ではあるが、せいぜい努力してみよう。
『不可能を欲する人間を私は愛する』、これはゲーテのことばである。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(4)
おい悪魔!
これからは恋よ仕事よ水ぬるむ
いつごろ何で読んだか忘れたが、いまこんな句を思い出した。
だれの作であるかは知らない。
「ゲーテはあらゆることを言っている」というが、これはまさかゲーテではあるまい。
水ぬるむ春4月は、世の中にどっと新人がふえるときである。
だが、いまどきの新入社員で、ラブ・アフェアの一つや二つを引きずってない者は珍しいだろうし、異動で飛ばされたり、舞い戻ったりした社員は「恋」どころではないだろう。
ま、それはともかく、このさい「仕事」というものについて、ちょっと考えてみよう。
アメリカの精神医学者W・E・オーツの『仕事中毒を治す法』(川勝久訳)のなかに、新しい空軍士官の飛行訓練の話がでていて、訓練中に失敗する士官には、あまりにも一生懸命になりすぎるタイプが多い、という。
飛行機の操縦には、気流との調和が必要である。
しかし気負いすぎの士官は、気流のことを無視して自分だけで飛ぼうとし、自分が最悪の敵になってしまう―というのである。
このテの仕事人間は、われわれのまわりにもけっこう多い。
頭も悪くないし、仕事もよくできるのだが、気持ちにゆとりがない。
偏狭な完全主義者とでもいうのか、自分にもきびしいが他人のミスを大目に見ることもできない。
相手が部下であれば冷たく容赦なく叱責する。
部下は顔で服従して、心では、
「なんてケツの穴のちッちェえ男だ、
そのうちきっと痔になるぞ!」などと思っている(にちがいない)。
こうしたパラノ型仕事人間に対する“トランキライザー”として、オーツ博士は次のような助言を与えている。
① あえてなりゆきにまかせよ。
② 他の人たちにいくつかのことをさせよ。
③ あまりにも一生懸命にやりすぎるな(頭を冷やせ)。
④ 姿を消せ(休暇をとり、旅にでて何もしない時間を過ごせ。)
⑤ 身体がダメになる前に身体がだす信号に注意せよ。
身体がだす警告信号にはさまざまなものがある。
痛みは、その最も基本的な形であって、われわれはそれによって生体の異常をいち早く知ることできる。
もし、痛みというものがなかったらどのようなことになるか。
生まれながらに痛みの感覚が欠けた「先天性無痛症」という異常体質があるが、このような人は、たとえ骨が折れてもまるで平気だし、自分の体の肉が焼けこげる臭いでようやくヤケドに気づくといったあんばいである。
だから、体中、傷痕やあざだらけである。
内臓に起こったさまざまな病変―たとえば、胃炎、虫垂炎、胆石、子宮外妊娠などなど―を知ることもできない。
警告信号としての痛みは、生体にとって不可欠なものである。
組織における従業員の不平不満もときに同じような警告信号の役目をするのではあるまいか。
これを頭から無視する(あるいは抑圧する)経営者は先天性無痛症みたいなものだろう。
ただ、生体の痛みにも無用で有害な痛み(警告の役目はとっくに終わっているのに、いつまでもしつこく続く痛み)があるように、組織の“痛覚”にも有害無用なものがある。
むろん、こんなこと、だれでも知っていることではあるが。
これも何かで読んだのだが、ある会社の社長が、新入社員にたいする訓示で、「おい悪魔」という呪文を教えた。
おこるな、いばるな、あせるな、くさるな、まけるな(自分に)の頭文字を並べたものである。
新入社員どころか、いいトシして相も変わらず、怒りっぽくて、いばりたがって、あせって、くさって、自分の怠け心に負けてばかりいるこちとらは、いまだに「おい悪魔」と自らを呼びつづけねばならない。
おい悪魔―なかなか守るにむつかしい教訓ではあるが、せいぜい努力してみよう。
『不可能を欲する人間を私は愛する』、これはゲーテのことばである。
ジョギング異聞 [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(3)
ジョギング異聞
ジョギングの“教祖”といわれたアメリカ人が、ジョギング中に心臓発作を起こして死んだ。
ジョギングに殉じて壮烈に死んだわけで、これもまた殉教の一種だとはいえないか。
ただし、盲信あるいは過信によるところの―。
戦後まもないころ、ある新興宗教の地方支部長(?)だった男が、マムシに咬まれた同じ宗教の女性信者を、その宗教の教えに従って、彼女の傷口の上に手をかざし、一心に祈ることによって治そうとして、ついに死なせてしまうという事件があった。
当然、警察沙汰になり、重過失致死罪だかに問われたのだったが、ありようはそれは狂信による殺人であった。
そんなものと比べてはちょっと気の毒だけど、ランニングは心臓を強くし、長寿につながると説いていた人が、わずか52歳で心筋梗塞で死ぬとは、なんと皮肉なことではないか。
フィックス氏におけるジョギングは、結果的に非科学的な信仰と大差のないものだった。
しかし、教祖自身が犯したような暴走を避けて、適切な走り方をしさえすれば、ジョギングにはまさにフィックス氏が説いたとおりの効果がある。
「人間の体は、使わなければ退化し、使い過ぎれば故障する。適度に使うことによって若々しい健康を保つことができる」
と、ギリシャの哲学者もいっているが、それくらいのことはだれでも知っているごく当たり前の常識である。
健康な人が、自分の体力に適した運動量のジョギングを習慣的につづけていると、足腰が強くなり、血液の循環と呼吸機能がよくなる。
肥満を防ぎ、高血圧、動脈硬化、心臓病、糖尿病などを予防するすぐれた効果がある。
また、運動療法としてのジョギングには、心臓病、糖尿病、高血圧症、痛風、脂肪肝などに対する治療効果も明らかにされている。
しかし、この場合には必ず前もって精密検査を受けた上です、専門家に運動処方(どのくらいの速度、どのくらいの時間走ったらいいか)を決めてもらい、絶対オーバーワークにならないようにすることが何よりも大切である。
このことさえきちんと守っていたらフィックス氏も死なずにすんだのである。
病気をもっている人はもとより、健康な人でも、無理な走り方は絶対に禁物である。
すべてのジョガーは、ガブリエラ・アンデルセンではなしに、オーエンスの孫娘や増田明美嬢のほうを見習うべきである。
忘れっぽい読者のために、註のかたちでつけ加えておくと、アンデルセンとは、先ごろのオリンピックの女子マラソンでほとんど失神寸前、“感動のゴールイン”をしたスイスの選手であり、オーエンスの孫娘は開会式の聖火ランナーだったが、トラックの途中で歩きはじめ、わが増田選手はじつにカッコよく最初の数㌔を走ったあとであっさり棄権した。
もし、一緒に走る人がいたら、たがいに会話ができるほどゆっくりした速度で走り、疲れたら歩き、のどが渇いたら水を飲む―これがジョギングの3原則である。
ジョギングにかぎらないが、適度の運動をすると、脳の中にモルヒネに似た物質(エンドルフィン)ができて、軽い精神安定剤の役割をする。
それがジョギングのあとの一種の麻薬的な爽快感を作る。
この状態をランナーズハイというが、一度この快感のアジを覚えると、もうなかなかジョギングがやめられなくなる。
いわゆるジョギング中毒になる。
ところが、最近このジョギングについていささか気になる研究が相ついで発表された。
カナダのアルバータ大学の研究グループが、定期的に長距離を走っている男性31人を調べたデータによれば、1週間に65㌔以上走る男性は、男性ホルモンの減少、ひいては性欲減退が起こってくるそうだ。
また、デンマークのコペンハーゲン大学のリス・ラーセン助教授(生理学)は、若い女性がエアロビクスのような筋肉を過度に使うトレーニングを長く続けていると、乳房の発達が(運動をやらない人に比べて)小さくなりやすく、ジョギングの量が多すぎる女性は生理日のサイクルが狂い、不妊症になりやすい、という調査結果を発表した。
何事もヤリスギはよくないという警告である。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(3)
ジョギング異聞
ジョギングの“教祖”といわれたアメリカ人が、ジョギング中に心臓発作を起こして死んだ。
ジョギングに殉じて壮烈に死んだわけで、これもまた殉教の一種だとはいえないか。
ただし、盲信あるいは過信によるところの―。
戦後まもないころ、ある新興宗教の地方支部長(?)だった男が、マムシに咬まれた同じ宗教の女性信者を、その宗教の教えに従って、彼女の傷口の上に手をかざし、一心に祈ることによって治そうとして、ついに死なせてしまうという事件があった。
当然、警察沙汰になり、重過失致死罪だかに問われたのだったが、ありようはそれは狂信による殺人であった。
そんなものと比べてはちょっと気の毒だけど、ランニングは心臓を強くし、長寿につながると説いていた人が、わずか52歳で心筋梗塞で死ぬとは、なんと皮肉なことではないか。
フィックス氏におけるジョギングは、結果的に非科学的な信仰と大差のないものだった。
しかし、教祖自身が犯したような暴走を避けて、適切な走り方をしさえすれば、ジョギングにはまさにフィックス氏が説いたとおりの効果がある。
「人間の体は、使わなければ退化し、使い過ぎれば故障する。適度に使うことによって若々しい健康を保つことができる」
と、ギリシャの哲学者もいっているが、それくらいのことはだれでも知っているごく当たり前の常識である。
健康な人が、自分の体力に適した運動量のジョギングを習慣的につづけていると、足腰が強くなり、血液の循環と呼吸機能がよくなる。
肥満を防ぎ、高血圧、動脈硬化、心臓病、糖尿病などを予防するすぐれた効果がある。
また、運動療法としてのジョギングには、心臓病、糖尿病、高血圧症、痛風、脂肪肝などに対する治療効果も明らかにされている。
しかし、この場合には必ず前もって精密検査を受けた上です、専門家に運動処方(どのくらいの速度、どのくらいの時間走ったらいいか)を決めてもらい、絶対オーバーワークにならないようにすることが何よりも大切である。
このことさえきちんと守っていたらフィックス氏も死なずにすんだのである。
病気をもっている人はもとより、健康な人でも、無理な走り方は絶対に禁物である。
すべてのジョガーは、ガブリエラ・アンデルセンではなしに、オーエンスの孫娘や増田明美嬢のほうを見習うべきである。
忘れっぽい読者のために、註のかたちでつけ加えておくと、アンデルセンとは、先ごろのオリンピックの女子マラソンでほとんど失神寸前、“感動のゴールイン”をしたスイスの選手であり、オーエンスの孫娘は開会式の聖火ランナーだったが、トラックの途中で歩きはじめ、わが増田選手はじつにカッコよく最初の数㌔を走ったあとであっさり棄権した。
もし、一緒に走る人がいたら、たがいに会話ができるほどゆっくりした速度で走り、疲れたら歩き、のどが渇いたら水を飲む―これがジョギングの3原則である。
ジョギングにかぎらないが、適度の運動をすると、脳の中にモルヒネに似た物質(エンドルフィン)ができて、軽い精神安定剤の役割をする。
それがジョギングのあとの一種の麻薬的な爽快感を作る。
この状態をランナーズハイというが、一度この快感のアジを覚えると、もうなかなかジョギングがやめられなくなる。
いわゆるジョギング中毒になる。
ところが、最近このジョギングについていささか気になる研究が相ついで発表された。
カナダのアルバータ大学の研究グループが、定期的に長距離を走っている男性31人を調べたデータによれば、1週間に65㌔以上走る男性は、男性ホルモンの減少、ひいては性欲減退が起こってくるそうだ。
また、デンマークのコペンハーゲン大学のリス・ラーセン助教授(生理学)は、若い女性がエアロビクスのような筋肉を過度に使うトレーニングを長く続けていると、乳房の発達が(運動をやらない人に比べて)小さくなりやすく、ジョギングの量が多すぎる女性は生理日のサイクルが狂い、不妊症になりやすい、という調査結果を発表した。
何事もヤリスギはよくないという警告である。
アルコール性ブラックアウト [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(2)
アルコール性ブラックアウト
先年、肝硬変で亡くなった池田弥三郎教授は、いかにも江戸っ子らしいきっぷのいい酒呑みだった。
肝硬変の原因をつくるのは80%以上が肝炎ウイルス。
酒による肝硬変は一般に考えられているほど多くはなくて、10%程度にすぎない(ただし、これは日本人の場合で、欧米ではアルコール性の肝硬変が大半を占める。)
しかし、実際にはどうだったのか知らないが、池田先生の肝硬変は、おそらく酒のせいだったのであるまいか。
とにかく、よくお飲みになったようである。
20年以上も以前のことだけれど、お会いして「酒談義」をうかがった。
そのときすでに「このところめっきり弱くなりました」といっておられたが、それでも適量はウイスキー「半本」で、ほとんど毎晩飲んでいるということだった。
むろん、酒は量ではない。なによりも酒品、これがだいじである。
酒ぐせの悪い男とは酒席を共にしない主義。いくら飲んでも翌朝はきちんと起きて机に向かう、とおっしゃった。
小生などにはずいぶんと耳が痛くもあったが、その池田さんの厳父―名代の天ぷら屋『天金』のあるじだった金太郎氏―もまた浴びるほど飲みながら、酒飲みが酒にのまれることをことの外きらった。
この人には「酒の上のことだから・・・」という口実は絶対通用しなかった。
「酒の上のことだからカンベンしろとは何事だ。酒の上のことだからこそカンベンならねぇ。そんなことしたら酒に申しわけない」。そういう人だった。酒に申しわけない、が面白いではないか。
感銘深く身にしみて、以来、わたくし、酒の上の失敗などしたことない。というのは、むろん大ウソである。
ただ、なぜか、このごろ、だらしなく酔っぱらってしまった、そのあとのことはまるで覚えていないし、思い出せない、といったことがよくある。
おかげで例の二日酔いの朝の自己嫌悪まじりの悔恨をうまく免れることが多くなったのはありがたい。人間、トシをとるのもまんざらわるくないと思う。
このような酩酊時の一時的な記憶欠損をアルコール性ブラックアウトという。
ブラックアウトは、血液1㎗中のアルコール含有量が200~300㎎(すなわち血中アルコール濃度0.2~0.3%)を超えると現れる現象である。
これは強酩酊期ないし泥酔期と呼ばれる状態で、ちょっとしたことでも激怒して叫んだり、泣き出したりする。
理性のタガがはずれて、潜在的本性が現れるのである。
このときには、麻酔がかかったように大脳の記銘力が失われている―またはずいぶんと弱くなっている―ために、自分が言ったり、したりしたこと、あるいは人に聞いたり、されたりしたことを、酔いがさめたあと、ほとんど思い出すことができない。
思い出そうにも初めから脳に記銘されていないのだから無理な話なのである。
逆にふだんは忘れてしまっていることを、酔ったときに思い出す、状況依存性効果という現象もみられる。
酔うといつも同じことをぐちったり、しつこくなるのはこのためである。
また、アルコールが入ると、いったいに右脳の働きがストップして、「言語脳」の左脳だけしか働かなくなる傾向がある。
で、頭に浮かんだことは全部言葉にしないと気がすまず、とめどなくしゃべりつづけることになる。
こうした急性アルコール中毒による一過性の脳の障害に対して、慢性的な脳萎縮による知能や記憶力の減退が起こることもある。
これは飲酒歴が長ければ長いほど、飲酒量が多ければ多いほど、進行が早い。
この慢性アルコール中毒による精神障害としてよく知られているのが、「コルサコフ症候群」である。
これにやられると、記銘力が弱まって、見たこと聞いたことを片はじから忘れ、自分がいまどこにいるかという見当感を失い(失見当)、根も葉もない作り話をする(作話症)ようになる。こわい、こわい!
それにしても、酒というものは大変なものだ。
年とともに酒の大変なることがわかってくる。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(2)
アルコール性ブラックアウト
先年、肝硬変で亡くなった池田弥三郎教授は、いかにも江戸っ子らしいきっぷのいい酒呑みだった。
肝硬変の原因をつくるのは80%以上が肝炎ウイルス。
酒による肝硬変は一般に考えられているほど多くはなくて、10%程度にすぎない(ただし、これは日本人の場合で、欧米ではアルコール性の肝硬変が大半を占める。)
しかし、実際にはどうだったのか知らないが、池田先生の肝硬変は、おそらく酒のせいだったのであるまいか。
とにかく、よくお飲みになったようである。
20年以上も以前のことだけれど、お会いして「酒談義」をうかがった。
そのときすでに「このところめっきり弱くなりました」といっておられたが、それでも適量はウイスキー「半本」で、ほとんど毎晩飲んでいるということだった。
むろん、酒は量ではない。なによりも酒品、これがだいじである。
酒ぐせの悪い男とは酒席を共にしない主義。いくら飲んでも翌朝はきちんと起きて机に向かう、とおっしゃった。
小生などにはずいぶんと耳が痛くもあったが、その池田さんの厳父―名代の天ぷら屋『天金』のあるじだった金太郎氏―もまた浴びるほど飲みながら、酒飲みが酒にのまれることをことの外きらった。
この人には「酒の上のことだから・・・」という口実は絶対通用しなかった。
「酒の上のことだからカンベンしろとは何事だ。酒の上のことだからこそカンベンならねぇ。そんなことしたら酒に申しわけない」。そういう人だった。酒に申しわけない、が面白いではないか。
感銘深く身にしみて、以来、わたくし、酒の上の失敗などしたことない。というのは、むろん大ウソである。
ただ、なぜか、このごろ、だらしなく酔っぱらってしまった、そのあとのことはまるで覚えていないし、思い出せない、といったことがよくある。
おかげで例の二日酔いの朝の自己嫌悪まじりの悔恨をうまく免れることが多くなったのはありがたい。人間、トシをとるのもまんざらわるくないと思う。
このような酩酊時の一時的な記憶欠損をアルコール性ブラックアウトという。
ブラックアウトは、血液1㎗中のアルコール含有量が200~300㎎(すなわち血中アルコール濃度0.2~0.3%)を超えると現れる現象である。
これは強酩酊期ないし泥酔期と呼ばれる状態で、ちょっとしたことでも激怒して叫んだり、泣き出したりする。
理性のタガがはずれて、潜在的本性が現れるのである。
このときには、麻酔がかかったように大脳の記銘力が失われている―またはずいぶんと弱くなっている―ために、自分が言ったり、したりしたこと、あるいは人に聞いたり、されたりしたことを、酔いがさめたあと、ほとんど思い出すことができない。
思い出そうにも初めから脳に記銘されていないのだから無理な話なのである。
逆にふだんは忘れてしまっていることを、酔ったときに思い出す、状況依存性効果という現象もみられる。
酔うといつも同じことをぐちったり、しつこくなるのはこのためである。
また、アルコールが入ると、いったいに右脳の働きがストップして、「言語脳」の左脳だけしか働かなくなる傾向がある。
で、頭に浮かんだことは全部言葉にしないと気がすまず、とめどなくしゃべりつづけることになる。
こうした急性アルコール中毒による一過性の脳の障害に対して、慢性的な脳萎縮による知能や記憶力の減退が起こることもある。
これは飲酒歴が長ければ長いほど、飲酒量が多ければ多いほど、進行が早い。
この慢性アルコール中毒による精神障害としてよく知られているのが、「コルサコフ症候群」である。
これにやられると、記銘力が弱まって、見たこと聞いたことを片はじから忘れ、自分がいまどこにいるかという見当感を失い(失見当)、根も葉もない作り話をする(作話症)ようになる。こわい、こわい!
それにしても、酒というものは大変なものだ。
年とともに酒の大変なることがわかってくる。
モチ腹・異論/反論 [「ヘルシーエッセイ」再録]
「One's Life」という健康総合ニュースサイトの片隅の小さな欄に毎週1本、「健康常識ウソホント」というタイトルの拙文を寄稿している。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(1)
モチ腹・異論/反論
明治のころ、東京帝国大学文学部でB・H・チェンバレンという名のイギリス人が、言語学と和文学を教えていた。
外国人が、日本の最高学府で、国語学を教えていたのである。
こういう例は後にも先にもない。
若き日の金田一京助も、チェンバレンの東洋比較言語学の講義を聴き、アイヌ語研究の第一歩を踏み出したのである。
このチェンバレンの著書『日本事物志』のなかに、次のようなくだりがある。
「正月の三日間、人びとは雑煮と呼ばれるシチューを食べる。
東京ではこのシチューにモチと青物がはいっており、魚の肉汁で煮たものである。
モチは新年に必ず用いられる食品で、日本人は非常にこれを好む。
食うと恐ろしくねばり気があって、不出来な重くるしいパンを思わせるが、薄く切ったのを火であぶり、焦がした豆の粉と、少量の砂糖とをふりかけて食うとうまい」
ま、専門の比較言語学のようなわけにはいかないのは当然として、これはこれでけっこうおもしろい比較食品学になってはいるようだ。
なるほど、雑煮も、モチも、それを初めて見た外国人の眼には、そのようないささか奇異なものに映ったにちがいない。
というところで、モチの話――。
当節は、モチもほかの食品と同じように年中珍しくもなんともない食い物になっているが、正月ともなればやはりモチの本格的出番という感じで、赤ん坊と、親の遺言でモチ断ちをしている人を除いては、日本人で正月にモチを食わない人はいないだろう。
食ってみると、モチというのは案外うまいものだし、あのように米をていねいにすりつぶして、かさが小さくなっているため腹に入りやすい。
すなわち、ユダンすると、モチはつい食いすぎてしまうことになり、挙句、いつまでも腹にもたれて、夜の酒がうまくない。
俗に「餅腹三日」といわれるようにモチは腹もちがよく、腹がすかない。
これはどういうわけでしょうと、さる漢方の先生にたずねてみたら、
「餅は消化の悪い食物だからです」と意外な答えであった。
『食品成分表』を見ると、モチ100㌘(市販の切りモチ2コ分)当たりの成分は、エネルギー235キロカロリー、水分44・5㌘、たんぱく質4・2㌘、脂肪0・8㌘、炭水化物(でんぷん)50・3㌘……などとなっている。
つまり、モチはその大部分がでんぷんと水分で、栄養的にはじつに偏った食品である。
なのに、なぜ、腹もちがいいのか。
これはまだ充分解明されてはいないのだが、糖尿病の人がモチを食べると病状が悪化しやすいところをみると、モチには糖質(でんぷん)が多く含まれているというだけではなしに、なにか糖質の代謝を妨げるような働きがあるのではないだろうか。
この漢方の先生のコメントについてのコメントを、食品栄養学の先生に求めたところ、とんでもない、モチはむしろ消化のいい食物なのだ、という答えが返ってきた。
ある大学で行った消化実験によれば、白米のめしに含まれるでんぷんの消化率は99・2%で、モチに含まれるでんぷんの消化率は99・9%だった。
にもかかわらず、モチがめしよりも胃にもたれる(つまり、腹もちがいい)のは、モチとめしに含まれる水分の差が最大の原因である。
モチ100㌘中の水分は44・5㌘だが、白米めし100㌘中には65㌘の水分が含まれていて、実に20㌘の差がある。
だから、仮にモチとめしを同じ量だけ食べると、めしには水分が多いから、摂取されるでんぷんの量はモチのほうが多くなり、当然、腹もちがよくなる。
ためにモチは消化が悪いという誤解が生じた、と食品学の先生はおっしゃった。
ともあれ、モチは、たとえば、きな粉をつけてアベカワにすれば、ダイズのたんぱく質と脂肪が加わり、栄養のバランスがとれるし、また、ダイコンおろしと一緒に食べれば、ダイコンの消化酵素の働きで胃のもたれが防げるし、ビタミンCの補給にもなる――と、これは両先生一致のアドバイスだった。
そこへさらに「ヘルシーエッセイ」なる短文を追加することになった。
だが、こちらは30年以上も前に書いたもので、その旧稿の再利用である。
同サイトの「特集」という項目を開いて、さらにそのなかの「コラム」という項目を開いていただくと、出てきます。
なんだかずいぶん無精なことをしますが、それをさらにここへ再々録させてもらいます。
ヘルシーエッセイ(1)
モチ腹・異論/反論
明治のころ、東京帝国大学文学部でB・H・チェンバレンという名のイギリス人が、言語学と和文学を教えていた。
外国人が、日本の最高学府で、国語学を教えていたのである。
こういう例は後にも先にもない。
若き日の金田一京助も、チェンバレンの東洋比較言語学の講義を聴き、アイヌ語研究の第一歩を踏み出したのである。
このチェンバレンの著書『日本事物志』のなかに、次のようなくだりがある。
「正月の三日間、人びとは雑煮と呼ばれるシチューを食べる。
東京ではこのシチューにモチと青物がはいっており、魚の肉汁で煮たものである。
モチは新年に必ず用いられる食品で、日本人は非常にこれを好む。
食うと恐ろしくねばり気があって、不出来な重くるしいパンを思わせるが、薄く切ったのを火であぶり、焦がした豆の粉と、少量の砂糖とをふりかけて食うとうまい」
ま、専門の比較言語学のようなわけにはいかないのは当然として、これはこれでけっこうおもしろい比較食品学になってはいるようだ。
なるほど、雑煮も、モチも、それを初めて見た外国人の眼には、そのようないささか奇異なものに映ったにちがいない。
というところで、モチの話――。
当節は、モチもほかの食品と同じように年中珍しくもなんともない食い物になっているが、正月ともなればやはりモチの本格的出番という感じで、赤ん坊と、親の遺言でモチ断ちをしている人を除いては、日本人で正月にモチを食わない人はいないだろう。
食ってみると、モチというのは案外うまいものだし、あのように米をていねいにすりつぶして、かさが小さくなっているため腹に入りやすい。
すなわち、ユダンすると、モチはつい食いすぎてしまうことになり、挙句、いつまでも腹にもたれて、夜の酒がうまくない。
俗に「餅腹三日」といわれるようにモチは腹もちがよく、腹がすかない。
これはどういうわけでしょうと、さる漢方の先生にたずねてみたら、
「餅は消化の悪い食物だからです」と意外な答えであった。
『食品成分表』を見ると、モチ100㌘(市販の切りモチ2コ分)当たりの成分は、エネルギー235キロカロリー、水分44・5㌘、たんぱく質4・2㌘、脂肪0・8㌘、炭水化物(でんぷん)50・3㌘……などとなっている。
つまり、モチはその大部分がでんぷんと水分で、栄養的にはじつに偏った食品である。
なのに、なぜ、腹もちがいいのか。
これはまだ充分解明されてはいないのだが、糖尿病の人がモチを食べると病状が悪化しやすいところをみると、モチには糖質(でんぷん)が多く含まれているというだけではなしに、なにか糖質の代謝を妨げるような働きがあるのではないだろうか。
この漢方の先生のコメントについてのコメントを、食品栄養学の先生に求めたところ、とんでもない、モチはむしろ消化のいい食物なのだ、という答えが返ってきた。
ある大学で行った消化実験によれば、白米のめしに含まれるでんぷんの消化率は99・2%で、モチに含まれるでんぷんの消化率は99・9%だった。
にもかかわらず、モチがめしよりも胃にもたれる(つまり、腹もちがいい)のは、モチとめしに含まれる水分の差が最大の原因である。
モチ100㌘中の水分は44・5㌘だが、白米めし100㌘中には65㌘の水分が含まれていて、実に20㌘の差がある。
だから、仮にモチとめしを同じ量だけ食べると、めしには水分が多いから、摂取されるでんぷんの量はモチのほうが多くなり、当然、腹もちがよくなる。
ためにモチは消化が悪いという誤解が生じた、と食品学の先生はおっしゃった。
ともあれ、モチは、たとえば、きな粉をつけてアベカワにすれば、ダイズのたんぱく質と脂肪が加わり、栄養のバランスがとれるし、また、ダイコンおろしと一緒に食べれば、ダイコンの消化酵素の働きで胃のもたれが防げるし、ビタミンCの補給にもなる――と、これは両先生一致のアドバイスだった。