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新年は、死んだ人を…… [雑感小文]

 新年は、死んだ人を……

 昨日の「ふうちゃんの詩」につづけて、やはり毎年、正月の朝、読むことにしている詩がある。
 
 大正生まれの詩人が、昭和の末年に書いた詩だ。



 きのうはあすに      中桐雅夫 

 新年は、死んだ人をしのぶためにある、

 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、

 おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、

 でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?

 人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
 
 きょうはきのうに、きのうはあすになる、

 どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、

 でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?


 この詩が収められた詩集『会社の人事』(晶文社)を開くと、ふやけた性根にピリッと辛い詩句が次々に現れる。
 

 何という嫌なことばだ。「生きざま」とは、

 言い出した奴の息の根をとめてやりたい、

 知らないのか、これは「ひどい死にざま」という風に、

 悪い意味にしか使わないのだ、ざまあ見ろ!

    ──略──        

 生きていてどれほどのことができるのでもないが、

 死ぬまでせめて、ことばを大切にしていよう。

                            (「嫌なことば」)


 きみの会社のきみの引出しの隅を、

 クリップを伸ばした先でつついてごらん、

 お世辞の雨でふやけた塵や、

 皮肉のにかわで固まった塵が出てくるよ。
    
  ──略──

 目刺しのように並んでいる良心の割引者たち、
   会社員ばかりの厭(いや)な日本だ。

                     (「会社員」)」。



 人間は二種類に分けることができる、

 紅白歌合戦を見る人、見ない人、

 飢えている人、食べ飽きている人、
 
 人を殺したことのある人、殺したことのない人。

     ──略──       

 向こう側の国と、こちら側の国とがある、
 
 向こう側に妹や弟がいたら、と想像するのはおかしいか、

 肉を食べたことのない子供たちを想像するのはおかしいか、

 それほどの想像力も、きみらはもっていないのか。


 ぼくは自分の小さな手のつまらないしわを眺めながら、
 
 生きているのが恥しくなった。
                  ──ベトナム二題─

                          (「想像力」)



 おれたちはみな卑怯者だ、

 百円の花を眺めて百万人の飢え死を忘れる、

  強い者のまえでは伏し目になり、

 弱い者のまえでは肩をそびやかす。

                           (「卑怯者」)



 戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は

 おれは絶対風雅の道をゆかぬ

                         (「やせた心」)
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