耳の祥月命日 [雑感小文]
聴覚障害者ならではの利便もあるのだが
2006年5月、突発性難聴で左耳がこわれた。
右耳はもともと高度難聴だったから全聾が完成した。
あす11日が11回目の「耳の祥月命日」である。
不便、不自由、不安、抑うつ、不用心…などなどに日々直面し、焦ったり、くさったり、笑ったり、総じて言えばいろいろと面白い11年だった。
読んだり書いたり考えたりするのには耳は要らないから、すこしも困らない。
電話のベルや救急車のサイレンで安眠を妨げられることもない。
内緒話や耳打ちなんてものの相手にならずにすむのは、聴覚障害者ならではの利便だろう。
とはいえ、自由な会話ができないのは実につらい。
人の話はうまく聞き取れないのに、自分の言いたいことは言える。
なんとエゴイスティックな障害だろう。
最初はそう思ったが、そうではなかった。
会話というのは、相手の言葉を聞いて、理解して、はじめて成立する。
それができないのだから、自分の言葉もないにひとしい。
しぜん人と会うのがおっくうになり、出不精になった。
10年もたって、この課題をなかなか克服できない。
そのうち、あっちのほうへ引っ越したら、また聴こえるようになるだろうか。
先に行ってしまったなつかしい人びとと再会したとき、楽しい会話ができるだろうか。
いまも夢で会ったときはちゃんと聞いたり、話したりできてるだから、たぶん大丈夫だろう。
もうすこしの辛抱だ。
がんばるべえ。
2006年5月、突発性難聴で左耳がこわれた。
右耳はもともと高度難聴だったから全聾が完成した。
あす11日が11回目の「耳の祥月命日」である。
不便、不自由、不安、抑うつ、不用心…などなどに日々直面し、焦ったり、くさったり、笑ったり、総じて言えばいろいろと面白い11年だった。
読んだり書いたり考えたりするのには耳は要らないから、すこしも困らない。
電話のベルや救急車のサイレンで安眠を妨げられることもない。
内緒話や耳打ちなんてものの相手にならずにすむのは、聴覚障害者ならではの利便だろう。
とはいえ、自由な会話ができないのは実につらい。
人の話はうまく聞き取れないのに、自分の言いたいことは言える。
なんとエゴイスティックな障害だろう。
最初はそう思ったが、そうではなかった。
会話というのは、相手の言葉を聞いて、理解して、はじめて成立する。
それができないのだから、自分の言葉もないにひとしい。
しぜん人と会うのがおっくうになり、出不精になった。
10年もたって、この課題をなかなか克服できない。
そのうち、あっちのほうへ引っ越したら、また聴こえるようになるだろうか。
先に行ってしまったなつかしい人びとと再会したとき、楽しい会話ができるだろうか。
いまも夢で会ったときはちゃんと聞いたり、話したりできてるだから、たぶん大丈夫だろう。
もうすこしの辛抱だ。
がんばるべえ。
タグ:突発性難聴
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