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銀嶺の果て [雑感小文]

銀嶺の果て


 誤嚥(ごえん)性肺炎で思い出す人がある。

 映画監督の谷口千吉さん。2007年の10月29日、亡くなった。95歳、誤嚥性肺炎だった。
 
生前、親しくお話を聞く機会があり、感銘を受けた。

 谷口さんは戦前、早稲田大を出て、PCL(東宝の前身)に入り15年間、助監督。

 3年間兵隊にとられ、戦後、『銀嶺(ぎんれい)の果て』で監督デビューした。

 「会社からはプロデューサーになれと言われたのです。

 ぼくはガッカリして、15年も助監督やったのにそれはあんまりだ。

 ほれ通した女なんだから1度くらいは思いをかなえさせてくださいヨ。
 
それじゃ1本撮らせてやる。1本だけだぞ。

 ええ、いいです。

ぼくは腹の中で1本撮って東宝をやめようと思って、そのことが結果的によかったんですね。


どうせ、これ1本だからってんで、思いきり全力投球で、やりたいようにやった。

 山が好きだから山のシャシンをやりたい。それに黒澤(明監督=谷口さんの親友だった)が非常に相談にのってくれて、シナリオができて、それが思いがけずヒットしたことで、会社もこれはいけるかもしれんなと思ったのですね。

 で、まぁ契約したわけです」

   

 谷口千吉監督の第一作『銀嶺の果て』(1947年)は、登山経験を生かした山岳アクションで、新人の三船敏郎を一躍スターダムに押し上げた。

「1本だけ…」の約束だったが、大当たりしたので正式契約。

「ジャコ万と鉄」(49年)、「暁の脱走」(50年)などヒット作を連発、「芸術の黒澤、娯楽の谷口」といわれた。

「ですからね、契約してもいつクビになるかわからない時期のものは、下手は下手なりにどこか土性骨が通っていたと思うんです。

 それが5年、6年たって映画監督という名が定着してくると、なにか器用に巧くまとめようとしてね、かえって駄作になっちゃった。

 現状に安住すると、人間、どこかゆるんでくるんじゃないですか。

 そこへいくと、黒澤(明)なんてね、撮り終わって5分もたてばもう後悔が始まって、それがどんどん増殖していくものなんだ、と。」

 一期一会。

 多くの人に会って、話を聞き、記事を書いてきたが、話の面白さ、魅力あふれる人柄…、最も忘れ得ぬ人の一人が谷口千吉さんだった。
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