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江戸の貧乏 [雑感小文]

減らない銭なら金三両

「いつも三月常月夜、負わず借らずに子三人、女房十八我二十」ということわざがある。

「いつも三月のような陽気で、月の晩ばかりで、借金などなく、元気な子が三人いて、女房は十八で、おれは二十であったなら、もう言うことはないなぁ」

─明るくつましい庶民的願望だろう。

昔の三月は今の四月下旬、陽気の快適さは現代よりはるかに勝っていただろう。

『故事ことわざ辞典』を開くと、同類の俗言がいくつも出ている。

「いつも月夜に米のめし」

「いつも九月に常月夜、早稲(わせ)の飯にどじょう汁、余らず過ぎず子三人」

「いつも三月常月夜、減らない銭なら金三両、女房十八われ二十」

減らない銭─には、笑った。

まったくだ。それなら三両もあれば御の字だろう。

小判などめったに拝めず、たまさかご入来にあずかっても、

「これ小判せめて一晩居てくれろ」と懇願せずにはいられぬ暮らし向きだったわけだから…。

それにしても、そんな江戸の暮らしを、ふとうらやましく感じるのは、現代の貧乏生活にいたく思い屈するものがあるからか。
タグ:三月常月夜

稀勢の里! [雑感小文]

根性と努力

いやあ、すごかったなあ! 稀勢の里! 

千秋楽の本割と優勝決定戦。

いまもまだまぶたの裏に鮮やかに残る壮絶、感動の二番を再生しながら眠るのが、あの日以来の入眠儀式になっている。
  

大相撲の世界はまことに厳しい。

毎年の新弟子約100人のうち十両以上の関取になれるのは10人足らずだろう。

まして異郷の地からやって来て、大関、横綱に昇りつめるのは並大抵の力量ではない。

琴奨菊との一番、巨体に似合わぬこすい立合いですっかり人気を落としたが、照ノ富士もなかなかの力士であるのは間違いない。

 *

昔、元出羽錦の田子ノ浦親方(故人)にこんな話を聞いたことがある。

「昭和30年ごろ、私に付いていた若い者のなかで一番素質があって相撲も強く、これはもしかしたら大関になるかもしれないと思ったのは、途中で止めました。

一方、佐々田は十両までいけば上出来だろうと言われていたのですが、やはり根性と努力がちがったのですね」

 ─佐々田とは、第50代横綱・佐田の山だ。

「しごかれて、しごかれて、根性ができる。力がつく」と田子ノ浦さんは話した。

陰徳の症状 [雑感小文]

陰徳の症状

劇作家の木下順二氏は、戦後ずっと耳鳴りに悩まされていたそうだ。

夜となく昼となく頭の中で鳴り続ける執拗(しつよう)な「神経音」を聴きながら「夕鶴」を書き、「子午線の祀(まつ)り」を書き、「オットーと呼ばれる日本人」を書いたのだろう。

「耳鳴り(を持つ者)は陰徳の士なり」とかいう。

本人以外には聞こえない、目にも見えない症状にじっと耐え続けるさまは、人に知られぬようひそかにする善行に似ているというのだろうか。

木下さんは、ご母堂を亡くしたときのあいさつ状に、「花一輪といえども御辞退申し上げます」と記し、自身の死に際しては、葬儀無用、墓無用、母の遺灰と共に海へ流してくれるよう遺言した。

耳鳴りはそのように自分を律するのに厳しかった作家にふさわしい?症状のようにも思われる。

耳鳴りは、難聴の多くに伴って起こるが、耳鳴りだけ単独に起こることもある。

長く続く耳鳴りは、現在進行中の病気の症状か、病気が治った後の〝傷あと〟として耳鳴りが固定したかのどちらかだ。

その見きわめが肝心だという。

及第がゆ [雑感小文]

 及第がゆ

 天暗く七草粥(ななくさがゆ)の煮ゆるなり    前田普羅

 年末年始の暴飲暴食で疲れ果てた胃袋をいたわり、おせち料理の偏った栄養を補う七草がゆは、優れた食の知恵だ。

「せり、なずな(ぺんぺん草)、ごぎょう(母子草)、はこべら(はこべ)、ほとけのざ(たびらこ)、すずな(かぶ)、すずしろ(大根)これぞ七草」という歌は鎌倉時代のもの。

すずな、すずしろ以外はみな野草。

なずなは利尿、解熱剤、はこべは動悸(どうき)息切れをしずめるなど、七草それぞれの薬効も知られている。

七草がゆは中国伝来の風習だが、科挙(官吏登用の国家試験)の制度があった時代の中国では、難関に挑む受験生が、合格の祈りを込めて「及第がゆ」を食べたという。

豚の肝臓(レバー)心臓(ハツ)腎臓(マメ)と魚の刺身が入った栄養満点のおかゆだったらしい。

現代日本の受験生も真似したらどうだろう。おかゆは消化がよいが、軟らかいのをいいことにろくにかまずに食べたのでは、不消化のもと。よくかんで食べよう。

風邪の葬式 [雑感小文]

風邪の葬式 

ノロウイルス騒ぎのせいで、影が薄くなっているみたいだが、冬の病気といえばなんといっても風邪だ。

風邪は人間がいちばん多くかかる病気だから、卵酒をはじめ昔からいろいろな民間療法が伝えられている。

「昆虫記」で有名なファーブルは、風邪をひくと、かまどの灰の中に頭を突っ込んだ。

そうすると、ひとしきりくしゃみが出て、風邪はケロリと治ってしまう。

ファーブルはそれを「風邪の葬式」と称していたそうだ。

科学的信ぴょう性は問わないことにすれば、風邪の素人療法の中で最もユニークな一つといえるだろう。

健康な人の風邪は、薬を飲んでも飲まなくても3日たてばメドがつくのが普通だ。

逆にいえば風邪の素人療法は3日までが限度。

3日たっても症状が軽快しないときは、医師の診察を受けるべきだ。

初めから38度を超える熱が出たときや、普通の風邪にはみられない症状を伴うときもすぐ医者に行ったほうがよい。

せきをすると息苦しかったり、胸が痛むようなときは、肺炎や胸膜炎を起こしているおそれがある。

素人治療ではとても手に負えない。

新年は、死んだ人を…… [雑感小文]

 新年は、死んだ人を……

 昨日の「ふうちゃんの詩」につづけて、やはり毎年、正月の朝、読むことにしている詩がある。
 
 大正生まれの詩人が、昭和の末年に書いた詩だ。



 きのうはあすに      中桐雅夫 

 新年は、死んだ人をしのぶためにある、

 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、

 おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、

 でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?

 人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
 
 きょうはきのうに、きのうはあすになる、

 どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、

 でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?


 この詩が収められた詩集『会社の人事』(晶文社)を開くと、ふやけた性根にピリッと辛い詩句が次々に現れる。
 

 何という嫌なことばだ。「生きざま」とは、

 言い出した奴の息の根をとめてやりたい、

 知らないのか、これは「ひどい死にざま」という風に、

 悪い意味にしか使わないのだ、ざまあ見ろ!

    ──略──        

 生きていてどれほどのことができるのでもないが、

 死ぬまでせめて、ことばを大切にしていよう。

                            (「嫌なことば」)


 きみの会社のきみの引出しの隅を、

 クリップを伸ばした先でつついてごらん、

 お世辞の雨でふやけた塵や、

 皮肉のにかわで固まった塵が出てくるよ。
    
  ──略──

 目刺しのように並んでいる良心の割引者たち、
   会社員ばかりの厭(いや)な日本だ。

                     (「会社員」)」。



 人間は二種類に分けることができる、

 紅白歌合戦を見る人、見ない人、

 飢えている人、食べ飽きている人、
 
 人を殺したことのある人、殺したことのない人。

     ──略──       

 向こう側の国と、こちら側の国とがある、
 
 向こう側に妹や弟がいたら、と想像するのはおかしいか、

 肉を食べたことのない子供たちを想像するのはおかしいか、

 それほどの想像力も、きみらはもっていないのか。


 ぼくは自分の小さな手のつまらないしわを眺めながら、
 
 生きているのが恥しくなった。
                  ──ベトナム二題─

                          (「想像力」)



 おれたちはみな卑怯者だ、

 百円の花を眺めて百万人の飢え死を忘れる、

  強い者のまえでは伏し目になり、

 弱い者のまえでは肩をそびやかす。

                           (「卑怯者」)



 戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は

 おれは絶対風雅の道をゆかぬ

                         (「やせた心」)

ふうちゃんの詩 [雑感小文]

 ふうちゃんの詩

まいとし元日の朝、読むことにしている詩がある。

昭和27(1952)年、大阪府下の小学校の2年生だった男の子の詩だ

ご一緒に読んでいただこう。


 お正月     二ねん 野上房雄

 お正月には

 むこうのおみせのまえへ

 キャラメルのからばこ

 ひろいに行く

 香里の町へ

 えいがのかんばん見に行く

 うらの山へうさぎの

 わなかけに行く

 たこもないけど たこはいらん

 こまもないけど こまはいらん

 ようかんもないけど ようかんはいらん

 大きなうさぎが、かかるし

 キャラメルのくじびきがあたるし

 くらま天ぐの絵がかけるようになるし

 てんらんかいに、一とうとれるし

 ぼく

 うれしいことばっかしや

 ほんまに

 よい正月がきよる。

 ぼくは、らいねんがすきや。

             (理論社刊『つづり方兄妹』所収)。


「らいねんがすきや」と書いた「ふうちゃん」は、その「らいねん」の春に病死した。

 学校からの帰り道の野っぱらで雨にふられ、傘がなくてびしょぬれにぬれてしまい、肺炎になったのだ。

 この国にこんな時代があったことを、こんな少年がいたことを─いまもいるかもしれないことを─忘れてはならないと思う。
タグ:野上房雄

夢の話 [雑感小文]

 夢の話

  初夢や金も拾はず死にもせず   夏目漱石

「初夢」とはいつみた夢か? 諸説ある。

元旦の目覚める前にみた夢、元日の夜みた夢、二日の朝か夜にみた夢、など。

ま、どれでも縁起のいい夢を「初夢」とすればよいのではないか。

夢には吉夢もあれば悪夢もある。

認知症の人や知的障害の強い人は、あまり夢をみない。

不安神経症やうつ病の人はあまりよい夢をみないそうだ。

よい夢、おもしろい夢をみているうちは、心身ともに健康といえるようだ。

   初夢の何やら美(は)しく寝過ごしぬ   武石佐海

夢をみるのは、レム睡眠(脳は目覚めている状態)のとき。

夢の続きで目が覚めると、脳はそれ以前に覚醒(かくせい)していたわけだから、頭がスッキリして気分がいい。

夢の中に出てきた人の数が多いほど幸せな気分になる。

人間は群居性の強い動物だからだ。

男性は女性より少なくとも3倍、セックスの夢をみる。

相手は見ず知らずの女性であることが多い。

女性がみる性的な夢の相手はたいてい知っている男性だ、とアメリカの精神医学者が書いている。

本当だろうか?

 初夢や秘して語らず一人笑む   伊藤松宇

命は深さ [雑感小文]

 命は深さ

「老いの達人」といって、いの一番に頭に浮かぶのは、聖路加国際病院の日野原重明先生だ。
 
1999年の文化功労者に選ばれたころ、お話を伺う機会があった。

「毎日7時半、遅くとも8時にはここ(院長室)に来て、会議をし、回診をし、大学で講義をして、いつもたいていお昼ご飯を食べる時間はありません。

 牛乳ワンパックとクッキーを三つぐらい。

 今日は寝たのが未明の4時でした。

 睡眠が5時間を超える日はめったにない。

 月に3、4回は徹夜で原稿書きをします。

 昨夜も20枚書きました。これまでに発表した医学論文は3200以上です」

「運動は好きだが、時間がなくてできないから、なるべく歩くようにしている。

 ビルの3階ぐらいまでならエレベーターは使わない。

 階段を一段飛ばしで駆け上がっちゃう」

 ─少しあきれ気味に感嘆、お年、サバ読んでおられるのでは? と突っこんだら、

「1911年生まれの88歳です。だが命は長さじゃない。深さなのですよ」。

 以来十有四年、2005年には文化勲章を受章、この10月には105歳になられた。

 多年好評連載中のエッセイにこう述べておられる。

「(10月末、台湾・台北市での国際健診学会の理事会に出席)、2泊3日の出張を終えた帰りの機中で、早速、俳句をひとつ作りました。

 私の生涯は 毎日が 生きた俳句のごと

 若干、注釈が必要かもしれません。私がこれまで生きてきた105年という年月は、まさに私自身に与えられ、大切に生きてきた「いのちの時間」であり、そして、これから先も一日一日を、まるで俳句のように凝縮させて生きていきたい、という思いをこめてみたものです。」(「105歳・私の証 あるがまゝ行く」=2016年12月4日朝日新聞朝刊b版)

タグ:日野原重明

心の支え [雑感小文]

心の支え

 だいぶ遅ればせながら本年の文化勲章受章者と文化功労者のお顔ぶれをていねいに拝見、電卓をたたいて平均年齢を算出してみた。

 文化勲章受章者6人の最年長者は画家・彫刻家の草間彌生氏87歳で、最年少者はノーベル医学生理学賞の大隅良典氏71歳。平均年齢は81.5歳。

 文化功労者15人の最年長者は書の尾崎邑鵬、小山やす子両氏の92歳で、最年少者は情報科学の西尾章治郎氏の65歳。平均年齢は78歳。

 みなさまいずれ劣らぬ「老いの達人」ばかりで、車椅子のかたもおられたが、深い人間性の刻まれた顔容に、不自由な肢体を支える強固な精神力が感じられた。

 またまた昔の話で恐縮。

 昭和30年前後の「うたごえ運動」のテーマソング(?)の歌い出しは「若者よ、体を鍛えておけ」だった。

 なぜ体を鍛えておかねばならないのか? 「美しい心が、たくましい体に支えられる日」が、いつかは来るだろう。

「その日」のために─心の挫折を防ぐために、体を鍛えておけ、というのだった。

 では……と思う。

 老人は心を鍛えておかねばならない。

 衰弱した体が、強い心に支えられる日が、すぐそこまで来ているからだ。
 
 老年の日々は、青春の日々とは異質の変化と試練の連続である。

 いつ決定的場面が訪れるかわからない。

 そのとき、あわてふためき、うろたえたり、取り乱したりしないためには、強い心が頼りだ。
 
 心をしっかり鍛えておこうと思う。

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